リベラル思想と善悪二元論。リベラルで平和にはならない。

前回の続きです。

LGBTは自己愛性パーソナリティー障害?同性愛とLGBT活動と政治。

前回は、ホモ(ゲイ)の人格やLGBT活動の裏側、そして政治家のホモ人脈と真言宗との繋がりなどについて書きましたが、今回はLGBTを簡単に受け入れるてしまう人々に焦点を当て、リベラル思想の危険性と多様性について書いていきたいと思います。

リベラルvs二元論

便利な”多様性”という言葉

私たちの脳は、二元論が大好きだ。何かにつけて、物事を白黒つけたがる。善と悪、賛成と反対、敵と味方、同性愛と異性愛――。しかし現実の世界は、そんなに単純ではない。むしろ自然界には、境界を明確に設定できないグラデーションのほうが多く存在している。

たしかに性染色体だけなら、XXとXYの2つに分類できるかもしれない。

けれど、その染色体上の遺伝子群が脳を作り上げるまでの過程には、極めて複雑で柔軟な発達過程が存在している。その複雑さと柔軟さこそが、私たちの心を1人ひとり違う色へと染めていくのだ。

私たちは多様なのだ。

多様だからこそ、あらゆる環境に適応し、今日まで生き残ってきたのだ。

善悪二元論的な考え方を否定し“多様性”を主張する考え方がありますが、わたしは多様性が必ずしも社会全体を平和にする考えではないと思います。

ほんとうに“多様性”が人々に“個性”を与えているのでしょうか。

わたしはそう思いません。

多様性のせいで苦しむ人が増えているとすら思っています。

多様性とは何でしょうか。簡単にいうと、発達障害のある人でも、LGBTでも、そのような境遇にある人々を”多様性である”と受容することで、それぞれが個性と才能を活かしながら生きられるようにするためにある言葉です。

実際それはそうですが、ほんとうにそのためだけに使われているかと言われたら嘘です。

前回の記事でも紹介したように、LGBTも利権のひとつに過ぎません。

多様性を受容させるために影響力のあるインフルエンサーが起用されたり、見せかけのロジックで言葉巧みに話すことができる魅力的な人を使って情報発信したりして、そうしているうちに段々と「大衆の考え」になって「時代の考え」になっていくのですから、もはや多様性の言葉の意味だけでは不十分です。

LGBTが儲けのタネにされている始末です。

所詮、多様性も「時代の考え」の一部です。力がある人が「時代の考え」を作っています。それもすべて金のため・・・。「差別はダメだ」という大衆の良心的な部分につけ込むことで利益をあげています。

多様でリベラルな社会だから簡単に悪人が蔓延ってしまうのではないでしょうか。

人それぞれ個性があり実に多様です。ですがこのような世の中では、個性を発揮しようにも発揮できない人の方が多いし、悪人の性質ばかり発揮されてしまっています。

「差別はダメだ」の罠

もちろん生まれながらに障害やハンデがあったとしても、それを差別するべきではありません。

とはいえ多様性という言葉をいいように解釈して、グレーゾーンに位置するものをあれこれと詰め込みすぎているように感じます。もはや「多様性のある社会≒個性を重んじる社会」ではないのが現状です。

”多様性”だけが一人歩きするばかりで日本は大して変わっていません。個性を重んじる社会だなんてお世辞にもいえませんね。

偽善のツラをしただけの悪なる面も”多様性”の中に潜んでいるというのに、その多様性を受け入れる側の人間といったら「差別はダメだ」と愚直に考えるだけなのです。

LGBTを受容する風潮はなくすべき?

そのようなことも加わって、「LGBTは差別するべきではない」と考えるのが一般的に受け入れられつつありますが、本当にそれは正しいことでしょうか。それは本当に個性のうちに入るのでしょうか。

近親相姦は差別し倦厭して当然です。なぜならその風潮をなくすべきだからです。

近親相姦は母親や兄弟を性的な目で見てしまう点では「性癖」のひとつです。ただの性癖だとしても、互いに求めあってそうしているのであっても、責められるべきだと人々が感じるのは生理的な嫌悪を感じるからに他なりません。ふつうに気持ち悪いです。

ではLGBTはどうでしょうか。LGBTのTはジェンダーレスなので置いておくとして、LGBもただの「性癖」のひとつです。それなのにどうして、LGBTは許され認められるべきだと言えるでしょうか。実際にLGBTの人から関係を求められたら“生理的な嫌悪”を感じる人が少なくないにも関わらず…。

ここで、LGBTが許される理由として動物の同性愛を根拠に話す人がいます。動物も近親相姦をするし同性愛があるのだからと言うのですが、知能のレベルが動物と人間とでは違いすぎるのだから比較対象に入るわけがありません。動物は動物です。ライオンのように生まれたばかりの兄弟を弄んで殺したり、メスを奪われただけですぐにオス同士で殺しあったり、そのようなことは通常の感覚を持った人間はできません。

LGBは性癖です。「盗癖」などの癖です。LGBT活動家を名乗る人々は、自分のただの悪い癖を“生理的な嫌悪感”を無視して人類に押し付けているだけではないでしょうか。

仲良しな兄弟から近親相姦を申し込まれて断れば、断った方が悪いのでしょうか。

基本的にリベラル思考の日本人は、容易く “ LGBTを受容する風潮 ” に飲み込まれ、価値観を受け入れてしまいます。ただ単に“ハンデがある人を差別してはいけない”というだけで…。善悪を分ける思想がないことはほんとうに危険です。

かといっていつでもどこでも斜に構えていては真実の情報も見逃します。だから真実を見る目が必要です。

今この情報が溢れる社会で悪人に踊らされることなく生き抜くためには、善悪を分ける知識と、真実を感じ取る力がほんとうに大切だと私は思います。

LGBTやスピリチュアルに陥りがちな人の心理構造

自分を嫌いになって自己効力感が失われたとき、人は答えを探します。そして答えを見つけようとして考えに考え、世にあるさまざまな価値観と考え方を元に(答えに相応しくなくとも)答えを選ぶ。しかし答えだと直感したとしても逆の意見は必ず存在します。

また、身近な親しい人の意見を好意的に受け取っているうちに、相手の意見がいつのまにか自分の意見になっていたなんてこともあるかもしれません。

ネットで検索すればあらゆる“答え”が出てくる時代で、わたしたちが求める答え、欲しい答えは何なのでしょう。

それは結局のところ、自分が生きることの“肯定感”ではないでしょうか。

なにかの情報を取捨選択するとき、人は主観で情報を選び取りますが、その結果、自分を肯定してくれる答えに辿り着きがちです。

すなわち「“肯定感”を与えてくれる答え」とは言い換えれば「自分を“正当化”できる答え」でしかありません。

わたしはLGBTになったことがないので詳しい心理状況はわかりません。

ですがスピリチュアルの泥沼には嵌っていました。スピリチュアルはわたしに“肯定感”を与えてくれました。スピリチュアルの答えで自分を正当化することができたのです。

空いた穴を寄り添うようにしてピタッと埋めてくれるのですから、答えだと勘違いするのは訳もないことです。LGBTもまた、そのように“肯定感”を与える考えのひとつではないでしょうか。

アナと雪の女王がLGBTを謳う映画だなんていう話もありますが、LGBTの思想は「ありのまま」の自分に肯定感を与えるものでしかありません。

とはいえ穴を埋めるといってもスピリチュアルもまた混沌としていて辻褄が合わないし、いつになっても現実的な問題は解決することがないので、表面的な繕いでしかありませんでした。

塞がった穴もすぐに崩れます。

でも肯定しなきゃ生きてはいけない

思うのですが、世の中で生きている限り、肯定感は得られないと思います。何をどう考えても正当化でしかありません。

「立派な社会人」になれば自分の存在意義など考えもしなくなるとは思いますが、それは「世の中の考え」にあわせているだけであって、それだけである程度は世の人々から認められるので、真に生きる意味は見出せていません。

また日常で、たくさん問題が起こるし、嫌なことが起こります。そんなとき、そういう浅い「世の中の考え」は脆いので役に立ちません。

そんなときのためのLGBでありスピリチュアルです。そうして性の乱れから抜け出せなくなり、スピリチュアルの沼から抜け出せなくなっていくのです。

では宗教はどうなんだ、と思うことでしょうが、本物の神様の真実の愛はわたしたちに不思議なほど肯定感と生きる強さを与えてくれるのです。詳しく知りたい方は、このブログのAboutをご覧ください。

正当化して何が悪い!

また、正当化して何が悪いんだ!と考える人もいるかもしれません。

引用記事の筆者は「複雑な社会だからこそ多様に適応し生きるべきだ」と言っていますが、それはつまり「世に合わせる」ということではないでしょうか。

善悪を見極めるよりも、自分の心を見つめ直すよりも、「世に合わせる」受容的でリベラルな生き方を推奨しているわけです。それが遺伝的にも正解なのだ、と。

「世に合わせる」とは「正当化」する行為だと前述しましたが、世の中の評価を得られれば、地位も上がるし自己効力感もあるし、なにより自分を「肯定」できます。

一見、「正当化」することは問題がないように思えます。

ですが「正当化」してばかりいて自分の心を見つめ直すことをしなければ、良心を失いかねません。もともと善良であればそこまで問題はないのかもしれませんが、自己愛性人格障害のように人のことを簡単に攻撃し感情を爆発させて打ちのめしてしまうような人は更に自分の悪どさに気づけなくなるからです。

他人のことになればどんな小さなことも見逃さないのに、自分のことはまるで分からない人間が誕生します。

それはひとえに自分を正当化させるだけで終わっているので、いつだって自分が正しいし、自分がしたことの善悪の判断は必要ないし、それはつまり真実はほとんどどうでもいいということです。

自尊心もまた欲です。欲望に任せた生き方は何も考えなくていいし、楽でいいです。むしろ複雑な現実で善悪を見極めながら生きる方が苦労します。自尊心という欲が悪いのではなく、コントロールできていないのが問題です。

それでも、真実を求めて、善と悪を分けて生きる人がいます。そういう人は自分の良心を守って大事にして生きている人だと思います。「良心を守ったところで利益などない世の中だ」と、そういう考えに陥らせるのがリベラルではないでしょうか。リベラルは人の良心を見えなくし、秩序とは真逆の混沌とした世界を作り出してしまいます。

多様性があってリベラルな社会は、人の良心をいつのまにか失わせてしまうのです。

そんな悪人もどきの人ばかりがいるのですから、どうして幸せに生きられるというのでしょう。無理です。

真理はどこにあるのか

「時代の考え」で正当化するばかりでは、見える真実も見えません。安直ではありますが、時代の考え=皆の考えをすれば大多数に認められるわけですから。受け入れる側もまた、「時代の考え」に安堵しているだけです。

みなさんはリベラルか二元論か、どっちで生きているのでしょうか。

生まれ持った性質もあるのかもしれません。それでもやはり、善悪を見極めることは大切なことです。それも主観で考えるだけでは意味がありません。それも結局、世の中の考えに過ぎないからです。

神による絶対的な善悪を学ぶからこそ、人は自分の良心を守りながら生きることができ、良心を守るからこそ客観性を見失うことなくこの世の中を生きられるのではないでしょうか。

「リベラル思想と善悪二元論。リベラルで平和にはならない。」に1件のコメントがあります

  1. ピンバック: スピリチュアルの嘘②!神秘なるフラワーオブライフの嘘とは。 – chanme.org

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