わたしは大学に入学してから、ある宗教に嵌った。
それが「RAPT」であった。
ある意味、カルト風な宗教団体であったと今では言い切れる。
洗脳を自分で解くことはかなり難しい。
だが、私は洗脳とは思っていない。
「信じるもの」が変わったのだ。
客観的には洗脳であったとしても、それすらも今は私の大事な人生の価値ある経験であった。
ただ単に宗教を批判することはあまりにも短絡的で、知的ではない。
人生に「楽しさ」を求める人もいれば、「真実」を求める人もいる。
それぞれ大事にしていることが異なる。
目に見える現実世界を創造する役割の人もいれば、目には見えない精神世界の創造を担う人もいる。
各々が得意としている分野で才能を発揮できる世界がいちばん幸せな世界である。
CONTENTS
聖書の力
聖書を知る前と、後では人生の見方がかなり違う。
これは本当に不思議なことで、いったい聖書の何がわたしの見方を変えたのかは言語化できない。
でも、聖書に真実を求めた人と、そうでない人の考え方の土台はかなり異なる。
有名人でいえば、岡田斗司夫もクリスチャンではないがキリスト教の家系に生まれた人で、その思考力は群を抜いている。
とはいえ、もともと幼少期から知能レベルが異常に高かった為に考察力も物凄いのではあるが…。
思考の土台が何なのかはとても大事で、その後の思考の方向性を左右する重大な要素ではある。
世界が存在する意味。
わたしは世界が存在している意味をときどき考える。
とてつもなく漠然としていて、答えの無い問ではあるのだが…。
神とわたしたち人間。
この2つの生命体を繋げる天使。
大前提にこの3つの存在が在るとして―。
神は天界にそびえる大きなりんごの雄しべの木であり、人間は地上にそびえる小さなりんごの雌しべの木に例える。
――ここから先はわたしが夢うつつの間で思考を巡らせた形跡のようなものだと思ってもらえれば幸いである。
りんごの木は自家受粉はできない。
そのため第三者の手を必要とする。
その第三の手である「蜂」のような役割を担うのが「天使」なのではないかと思うのだ。
わたしたち人間一人ひとりが「実」を成せる可能性を秘めている。
花を咲かせ、「実」を成して、そして種を作る。
これは単に人間同士が結婚して子供を作り生命を繋げるというだけではなくて、目には見えない世界の話である。
神というおしべの木と、人間というめしべの木があり、めしべの花は雄しべの花粉をもらって受粉する。
それはつまり、神と人間とが出会うということ。
地球という大きなめしべの木に生る花のうち、受粉した花だけがりんごの実をなす。
そうではない花はまた生命体として地に還り、また花となる。
実をなした花はどうなるか?
神は愛おしさをもって、りんごを大事に育てる。
そして収穫をして、その種は天界に植えられる。
神様の目的、それは人という生命体の開花と、人と愛を交わすこと、なのだと思う。
宗教の存在意義
聖書は神が人間に授けた唯一の書物。
しかし、神は宗教を作りたかったわけではなかった。
誰か教祖を作りたいわけでもなかった。
世界が多様性で満ち溢れているのは、人が人として開花していくためだ。
花は花でも、桜を見て感じること、薔薇を見て感じることは大きく異なる。
桜を見て、ぱぁっと心に入ってきたもの、それを言語化して理解して咀嚼できたなら、人間は「言葉」を得たのだ。
桜と、桜の持つ言語を得たのである。
桜が持っている言語、それは調和する美しさ、一瞬で咲き終わる儚さ、優しく微笑むような桃色、主張していないのに醸し出すその奥ゆかしい存在感―。
わたしたち人間の主体は「言葉」であり、大きな言葉を小さくして、細分化して繊細に感じ取れるようになり「言葉」を得ていく生命体だといえる。
そして人生の主体は「体験」だ。
なにかをすること、感じること、それ以外にも本を読むことは誰かの「体験」を得ることでもある。
宗教の話にもどろう。
宗教は縛るイメージが強い。
それは私たちの人生の主体である「体験」とは真逆のことのように思う。
「宗教」は幼い人間を守るためのものだ。
神はりんごの実をなした人間を大事に育てる。「傷」はつけたくないのである。
だが過保護であってもダメなのだ。
神の世界は秩序あっての自由と感動を得る世界だ。
その秩序を本能的に理解できれば、何も苦しいことはない。
神はわたしたち人間よりずっと賢いので、未来も見通すことができる。
幼い勉強嫌いな子供に、勉強の大切さを説くことほど難しいことはないのと同じように、神も「宗教」という仕組みを作ることでしか教えられないことがあったのである。
神が知ってほしいことは、この先に、今よりもっと感動する世界があるということだ。
もっと感慨深い素晴らしい体験があるということを、今の人類に知ってほしいのである。
だから、教祖がいなくても、神はずっとそばにいる。
その愛を感じられないとしても、愛を送り続けているし、大事に心をこめて一つ一つの命を育てている。
なにか一つの概念を壊すだけでも、かなりの労力がいる。
価値観が壊れることは、自分の一部が壊れることに等しい。
そしてそれは痛みすら伴う。
教祖を通じて感じたこと、それは一つも無駄ではない。
何一つ無駄なことはこの世界に無い。
神に出会えた、神を求めた、その愛が神がいちばん嬉しいことなのである。
なにも学ぶだけが成長ではない。
ただ感じることも成長なのである。
カルト宗教のただ中にいると、世界が単調になる。
あれはダメ、これはイイ。
その短絡的な思考は、日本語を駆使する日本人にはふさわしい考え方ではない。
日本人は物事を深く捉えられる、そういう素質がある。
でも、今の日本人は外人に比べて思考が浅く、考えることを放棄している人が多い気がする。
とにかく、教祖が存在している宗教に深く嵌ることは危険である。
人間はだれしも、他人をまるごと理解できる人などいない。
それなのに、信者は自分をまるごと教祖に委ねてしまう。
それはつまり、自分の大事な核である「意思」を教祖に委ねることであり、核を委ねてしまった人間は種を宿すことができない。
RAPTをやめた理由
きっかけという、明確なきっかけは無い。
だが、漠然とした将来の不安は消えないままであったのと、最初から「RAPT」氏のことは違和感を感じていた。
これは本当で、「朝会」がはじまったころから聞いているが、その人間性に違和感を感じるため好きではなかった。
わたしが27年間生きてきて、唯一自負できる研ぎ澄まされている感覚というのがある。
それが人に対する微かな違和感である。
確かに純粋ではある。だが、無慈悲な面もある。
あまり言うと叩かれるのでここまでにする。
とにかく「御言葉」を聞かないようになってから悪いことはなにも起きていない。
そして、それはかつて所属していた「ワールドメイト」を抜けたときと変わらない。
男女が愛し合うことで、心と体で理解しあえる感覚を味わえる。
そこに第三者は必要ない。
それは神と人とが愛し合うことでも同じである。
師は必要だが、教祖は必要ない。
少しの違和感にフタをすることは危険である。
その違和感すらも味わってこその体験であり人生なのだから、蓋をしてしまうのは勿体ない。