「生きづらい…」
そう感じるのは、霊的なものが原因かもしれない。
私自身、いつもそう感じながら生きている。
現実的な問題として、忘れ物が多かったり、おっちょこちょいでは済まないレベルの凡ミスが多発したり…というのもあるが、根本的には「霊的」な理由だと確信している。
下記の考察は、ただの私の”独創的な”考察である。
私には肩書も何もない。ただの凡人である。説得力のある人間だったらと悔やむばかりである。
ただ、悩みの解決のちょっとした助けになればと書いてみた。ほぼ空想なので、小説のひとつくらいに捉えてほしい。
スピリチュアルな観点から考察
魂の位置
前回の記事で、さしごの法則と、霊魂の法則を紹介した。
肉体は3次元、魂は4次元、霊体は5次元に存在し、魂は肉体と霊体を行き来している。
現代人の多くは3次元の肉体に魂が強く縛られているため、肉体の思考が強く働く。
「生きづらい」と感じる人は、それは言い換えれば、肉体に強く縛られていることが苦痛だとも言える。
おそらくは、魂がそう感じているのだろう。
肉体に宿るより、霊体に近いほうが「楽」なのである。
魂が望んでいるものと、霊体が望んでいるものとの周波数が合うのかもしれない。
肉体も霊体も自分の身体だが、それぞれ欲しているものが根本的に異なるためだ。
肉体が欲するもの
肉体が欲するもの。
それはいうまでもなく、皆が抱く欲望すべてである。
欲望は決して悪いものなどではない。
人類すべてが物質的な豊かさに恵まれ、各々が好き好きに才能を開花できる世界は素晴らしい世界だろう。
しかし、現代社会はそうではない。
「才能開花」の名のもとに社会の歯車のひとつとして組み込まれ、ある意味で奴隷となっている。
たとえ自分の好きなことを仕事にしていたとしても、金銭面の不安は死ぬまで付きまとうことになる。
そんな不自由な社会でも、脳は常に「成長」を欲している。
「成長」のための「刺激」を欲しているのである。
3次元の肉体に縛られる、それは即ち、肉体の脳の「成長」に縛られることでもあり、いわゆる【報酬系】に依存しているといっても良い。
自分の脳に正しい成長のための刺激を与えられているかどうかは別として、実は肉体に縛られることで「苦痛」を感じていると気付いている人は少ない。ただ「ひどく疲れた」と感じるだけである。
霊体が欲するもの
霊体はひたすら「愛」を必要としてる。
それは人間から生まれる愛ではなく、自然に存在している愛である。
自然のなかに宿る愛の源はすべて「神」から来ている。
男が女を愛するように、女が男を愛するように、本能的に神から愛されたいと願っている。
霊体はひとり闇の中で取り残されているようなもので、もはや自分が何をしたいのかもわかっていないのかもしれない。
だが、ひとたび闇の中で光を見て、そこに愛を見いだせたなら、自分が欲していたのはこの愛だったと気付くはずだ。
霊体の脳のIQ・EQ・CQをあげるために
目に見えない霊体が送ってくる「波動」から「言語」を受け取ることができるのは、霊体の左脳の働きが良いからだろう。イメージなど「抽象」で受け取れる人は右脳の働きが良いといえる。
目に見えない霊体の周波数に、自分の周波数を合わせて情報を受け取る力=霊能力、である。(愛が強ければ神に近い霊体であり、何の愛も感じない虚無の空気を漂わせていたら悪魔か何かの類だろう。霊界では人間の魂を取り合っているらしい。)
肉体のIQが遺伝的なものであるのと同じように、霊体のIQも遺伝的なものだ。
先祖が開発すれば、それは子孫に受け継がれていくのである。
人間の大先祖、アダムとイブ。
アダムとイブの堕落で、人は霊体の脳がおかしくなってしまった。
具体的に言うと、霊体の脳の神経回路がやられて壊れてしまい、神の愛や真理を忘れてしまったのである。
いわゆる認知症である。
霊体の脳は認知症になり、肉体の脳の思考が強まり、人は知恵を求め欲深くなった。
人類は認知症からの回復途中にある。
神経回路を再構築しているのである。
再構築するためには、神の愛と真理を「悟る」以外にない。
「悟る」のは肉体の脳にしかできない。
右脳だけでも、左脳だけでもダメで、どちらもフル回転でなければ難しい。
霊体はいつも神の愛を必要としているが、その思いに体が追い付かない状態にある。
現実世界が辛い人はつまり、霊体が慢性的に抱いている「苦しさ」を感じやすい人であり、「苦しさ」を解消できない、つまり「悟り」の環境にいられないのがたまらなく辛いのである。
神はどこにでもいるが、ただ一人だけである。私は、正しい愛の周波数は「聖書」の神だと信じて疑っていない。
天変地異が起ころうとも、これだけは不変である。
社会不適合者寄りの私が生きられるのは、祈ると神様の強く熱い愛が送られてくるからであり、いつも強く抱擁してくれているような感覚があるからである。
きっと感じた人にはわかるはずだ。本物を一度味わえば、偽物はすぐ分かるようになる。