だれかの善は、だれかにとっての悪となる。
悪とはなんでしょうか。
人それぞれ、何を悪とするかは違います。それは感じ方の違いでもあります。
なかには「誰かの善は、誰かにとっての悪になる」という考え方もあります。得をする人がいる一方で、どこかで損をしている人がいる…それと同じような考え方でしょうか。
たとえば、「善」を尽くした人がいます。でも、その人の考えている「善」は他の人が考えている善とは程遠いものでした。加えて、みんなが煙たがって嫌で嫌で仕方がないものでした。────このような「善」は果たして「善」なのでしょうか。
しかし、みんなが煙たがって嫌がっていたとしても、長い目でみたらそれは確かに「善」だった────という場合もあります。大衆の意見がすべて正しいわけではありません。同じように、少数派だったとしても間違っているとは限りません。
また、「善」は尽くしたけれど、その根にあるのは“自己顕示欲”で結果的に「偽善」だった────ということもあると思います。
なぜこのように「善」は、100%の「善」では無くなってしまうのでしょう。
その答えは簡単で、少なからず「善」に欲目が加わるからです。もしくは、最初から欲まる出しに「悪」を行い「善」はただのカモフラージュだった、なんてこともありますけどね。(どこかの政治家のように…)とはいえ欲を否定しているわけではありません。むしろ人間から欲を取り除けば、それは人間とはいえないただのロボットと化すに違いない。
よく映画では「自分の愛する人さえ守れたら国の民などどうなっても良い」なんていう、民を導くべき人間にはあるまじきセリフを言っているクズの役回りのキャストがいたりします。
「愛される人間」からすればその自分を守ってくれる愛をみて「善」だと思い、どうにかなってしまう無力な「民」からすれば「悪」でしかありません。つまり、受け取り手によって善悪の基準は「相対的」に変わってしまうわけです。
そのようにして善悪が「相対的」に変わることに特に着眼点を置いて考える人というのは、【人間は欲で動いてるんだから善とか悪だとかは欲の正当化に過ぎないのであり、善悪の基準も利己心からくるものだろう】という考えが基盤にあります。
そして、その基盤から【善や悪は相対的なものであり、絶対的なものではない】という考えや【誰かの悪は、誰かの善になる】なんていう考えが生まれるのです。
客観的で中立的な考えをする人の、行動原理。
そのように考える人は確かに【客観的で中立的】に物事を見定めようとしている、とも言えます。
だれかの行為を、徹底的に「悪」だとしない。ですが、そのかわり「善」ともしません。
だから、【主観的で独善的】に「悪」を「悪」という理由だけで徹底的にバッシングする人々を嫌います。きっと、そのような人々を腕を組んで見下ろしながら、自分だけは全てをわかったような目で憐んでいるのだと思います。
そこには、理解できないものは決して受け入れられない頑さもあります。わたしは「絶対的な」善悪の基準を重要視している立場ですが、悪を決して受け入れることはできません。日々まちがいを犯し、日々小さな罪を積み重ねている身ですが、基本的に悪は悪であり、そういった行為を許容することはできません。そういう意味では【客観的で中立的】な立ち位置を貫いている人も同じかもしれません。
善悪を基準としている人は善悪で動きますが、では、【客観的で中立的】な立ち位置にいる人は一体、何を根拠にして日々選択し、行動するのでしょうか。
善悪でないなら、残るは「自己利益」しかありません。
【客観的で中立的】にいようとする人間の行動原理もつまるところ「利己心」でしかないのです。
いざ自分に災厄が降りかかったときはどうするのでしょう。おそらくは、自分が嫌っていた主観的な人間になりさがり、激しく抗議することでしょう。
利己心の人間だけが集まった世界。
わたしはいつも中立の立場でいようとする人間が好きではありません。
客観的な人間が嫌いなのではありません。客観視は大事です。それを失えば、善悪の判断基準を失うことにもなりかねません。
中立の立場でいようとする人もまた常に客観視しているでしょうが、客観視する人が中立の立場にいるわけではないのです。この中立の立場でいる人間はいつも黙ってみているだけではなく、いざ不利益が被ろうとすれば損得で動きます。
このような自分の利益だけを追求する人間が集まった集団を想像してみてください。
おそらくは秩序の維持は難しく、争いも絶えないでしょう。
「誰かの悪が、誰かにとっての得」になり、「誰かの得は、誰かにとっての悪」になる世界になるのではないでしょうか。悪が何かも分からなくなります。
個々がバラバラの価値観を持ちながら集団として固まることは不可能に近い。
だから「最悪」が誕生したとき、一致団結して「最悪」を倒すことができません。その「最悪」が、だれかの利益になり得るからです。(最悪とはまさに今日でいう安倍政権)
だからわたしは、「共通した善悪の基準」を持つこと、そしてそれを重んじる「良心」を持つことはやはり“人間が人間として生きるために”もっとも大事なことだと思うのです。
それぞれが個々の善悪の基準を持っていてもどうしようもありません。個々の善悪の基準とはイコール、利己心に基づいた自分勝手な基準だからです。
かといって、令○新撰組のような偽善者集団も苦手です。彼らや彼らに付いてデモをする人々は何か、自分の溜めに溜め込んだ不満や心配や怒りといったネガティブなものを「正義」というポジティブなものに昇華して、発散しているだけのように感じるのです。もちろん、世を変えてほしいからこそ糾弾しているのは確かででしょう。そして彼らが世の先頭に立てば、安倍などの在日のクソ政治よりかは遥かにマシな政治が行われるようになるかも分かりません。
なにかを弾圧し倒さねばならないとき、必要なのは極論なのかも知れません。悪を悪とする、そういう極論です。
極論ではなく、ただ悪を悪としているだけですが、わたしたち日本人はおそらくそういったこと自体が苦手な人が多いのかもしれません。だから極論に聞こえてしまうわけです。
しかし、真の悪人は悪人であることをうまく隠しながら善人として生きているものです。
そんな小賢しい奴らに対して「あなたのこういうところは良いけれど、こういうところはダメだから直して欲しい」と優しく諭したところで、奴らはまた隠れたところで悪を行い続けるのです。そして、誰の利益でもないただ自分の利益のためになるよう頭を働かせて、大金を吸いとりながら死ぬまで生きる。われら下民はただの上級国民のための働きアリにすぎません。
「最悪」には「最善」を尽くすしかありません。そして「最前」を行うとき、わたしたち下民の怒りを昇華させただけの「正義」では、やはり物足りないと思います。
なぜなら、そのような正義では「最善」が行われないからです。それこそ怒りと主観で、客観性を失うことになるでしょう。自分の行いが見えなくなって、あとから見たらそれは悪人のしていることと変わりなかった、なんてことになれば本末転倒です。
世代によって、世の捉え方は違うことでしょう。「日本は平和すぎるほど平和だ」と思う人もいれば、「悪人による政治で腐りかけてる国だ」と思う人もいます。平和だと思っているならそれはただ無知です。そんな悠長なことは決して口にできないのが日本です。
安倍のクソ政治に毎日行き場のない怒りを抱えている人もいれば、諦めている人もいますが、どんな境遇にあったとしても日本人はもっと真実を知るべきです。そして、ただしい善悪の基準を持って生きることが、これからの世界をよくする鍵となるはずです。
なにが正しくて、なにが悪いのか。
なにが正しく、なにが悪いか。それは間違いを犯してしまう人間が基準を設けていいものではありません。アルファでありオメガである、すべての愛の源である神が決めるべきことではないでしょうか。神様はこの地球を想像を絶するほどに緻密に作りました。突然ビックバンが起きて、それで勝手にこれほどまでのクオリティの世界が作りあげられる訳がありません。
ここまで緻密に作られた地球はすべて、人間が生きるためでした。その愛の源である神が欲目で間違いをおかすことはあり得ないのです。このような世界になったことを神のせいにする人がいますが、このような世界になったのは人間が神から与えられた自由意志による【選択の結果】に過ぎません。
いま日本人に必要なものは、世の常識とされてしまった間違った価値観をただしい方向に修正するための「正しい善悪の価値観」です。みなが「利己心」で生きるだけでは、この世の中は決して変わりません。「最悪」が倒されたとしても、また頭を持ち上げて台頭してくるのは更なる小賢しい悪人かもしれないのです。
さいごに。
ご一読いただきありがとうございます。さいごに、今回の内容に関連したオススメ記事を紹介しておきます。
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