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女から嫌われる女の解明
典型的な女から嫌われる女
「女から嫌われる女」
それを聞いていちばんに連想するのは”ぶりっ子”だ。
ぶっり子は周りの女たちから嫌われる。
あからさまなボディータッチ、猫なで声、周囲の女を下げて自分を上げる言動の数々――。
女たちはそういう一つ一つの仕草や言動をみて、無性にイラ立つ。
とはいえ、女はみな好みの男の前では大なり小なり態度を変えてはいる。
いや、無意識に変わってしまう。
だが、ぶりっ子は違う。
彼女たちは明確な意図を持って意識的に態度を変えている。
前者は自然な反応に対し、後者は不自然だ。
“自分だけが愛されたい”
“自分だけが注目されたい”
“いろんな男に好かれたい”
そういう過剰な愛されたい欲や自己顕示欲だとかが、ぶりっ子をぶっり子たらしめている訳であり。
なんとなくで嫌われる女
女から嫌われる女、それは“ぶりっ子”に限る話ではない。
傍目はぶりっ子ぶりっ子してはいないのだが、周りの女たちを妙にイラつかせてしまう女もいる。
そういう女は周りの女たちからこう思われる。
「なんとなく嫌いなんだよね…。」
この“なんとなく”がミソである。
このように周囲の女たちに“なんとなく”嫌悪感を抱かせてしまうのは何故なのか。
女A「女X、悪い子じゃないんだけど…、なんかなぁ、好きじゃない…。」
女B「わかる、わたしもそれずっと思ってた。」
女A「だよね!私が心狭いだけなのかと思ってた。」
女B「いやいや、女Cも言ってたし。女Aが心狭いんじゃないって。」
女A「何でだろうね、女X。見てるとイライラしてくるっていうか…。」
女B「わかる…。」
女Xは女Aと女Bから陰でひっそり悪口を言われている。この積み重ねが虐めに発展してもおかしくは無いのだが…。
人間関係は一言で言い表せるほど単純ではないし、決して虐められる側にも原因があって虐められると言いたいわけではない。
虐めが起こるのは、虐める側に問題があるからこそ起こるものである。
ただし、このままでは女Xはあまり人から好ましく思われ続けないのも確かである。
ぶりっ子が嫌われるのは火を見るより明らかだが、妙に嫌悪感を抱かせてしまうこの女Xはなぜ嫌われてしまうのだろうか。
女Xが嫌われるワケ
この女Xの謎を解明するにあたり、まずはぶりっ子の生態を知る必要がある。
下の図をご覧いただきたい。
(※男の方はシンプルに表した。無能とは書いてあるけど、それはある一側面から評価した場合に限り、その人自身が無能というわけではない!)
女のカリスマはいわば、ぶりっ子とあざと女子の進化系であるといっても過言ではない。
そう、ぶりっ子は目立ってはいるものの階層的には下の部類に相当する。※主観です笑
なぜぶりっ子がカリスマになれないのか。
その理由はずばり品性だ。
ここでいう品性とは、思慮深さ、知能の高さ、芯の強さ、発言力、光る個性などを意味する。
品性があれば分かりやすく人前で誰かをけなすことはせず、裏でコントロールするだろう。人前ででしゃばる真似はせず、こっそり目当ての男にボディータッチをして落としにかかる。
そう、あざとい女である。
ぶりっ子が賢くなったらあざとい女になる。
とまあ、進化論はこのくらいにして…笑。
カリスマ・あざと女子・ぶりっ子、3種はそれぞれ2パターンずつある。
すなわち、善良か邪悪か、である。
そもそもの人格のベースが善良か邪悪かで、話は大きく変わってくる。
言うまでもなく、邪悪なカリスマは危険な存在である。
カリスマ×邪悪=villain
カリスマ×善良=女ボス・ヒロイン
あざと女子×邪悪=ク〇bitch
あざと女子×善良=姉御orお姉さま
ぶりっ子×邪悪=bitch
ぶりっ子×善良=愛されキャラ
女Xの分類
では、女Xはどこに分類されるのだろうか?
実は、女Xはどちらかというと“ぶりっ子×善良”に分類される。
だが、あからさまなぶりっ子ではない。
女Xのポテンシャルは“ぶりっ子×善良=愛されキャラ”なのではあるが、卑屈さや劣等感や自己否定感が強く人格に混入しているため、拗らせており、ベースの軸がブレている。
女Xの葛藤/アンビバレント
そう、彼女は拗らせてしまっていする
もっと具体的に言うと、強い愛されたい欲と強い自己否定とがぶつかり合い、常にアンビバレントな状態にあるのだ。
周囲は、そのアンビバレントに違和感を覚える。
そして、人によってはその違和感が嫌悪に変わる。
アンビバレントであるが故に表面化すること
アンビバレントな人格であるために、発言にブレが見られる。あからさまなものであれば、褒めたかと思えば突然悪口を言い出すなどだ。
また、コロコロ態度が変わり、温度差がある。
本人は自己評価の激しい波に苛まれ、嫉妬も覚えやすく、人を好きになったり嫌いになったり変化が激しい。
また、そもそものポテンシャルはぶりっ子であるため、基本的には自分が目立ちたいし、自己顕示欲も割とある。
そして、その自己顕示欲は利己的な心をも生みだす。
自分、自分、自分、になっているので他人を思いやる余裕はあまり無い。
自分の利益になること、自分の欲を満たすことが中心になるのだから、利己的になるのも自然なことである。
周囲は彼女を見て、気まぐれだなとか、自分が良ければそれでいい人だなあとか、あまり信用できない印象を抱くようになる。
アンビバレントであるが故に過激化する言動
アンビバレント、すなわち、相反する感情や考えを一緒くたに抱いている。
それはある意味、常に両極端が存在していることになり、カオスだ。
ゆえに、過激な思い込みや、ヒステリーにも陥りやすい。
それが常に表面化されているならば、人格障害と言わざるを得ない。
しかし、女Xが”なんとなく”嫌われるだけで大多数に嫌煙されるわけではない理由は、その過激さが基本的は抑圧されているからだ。
「嫌われたくない・好かれたい」思いによって、あるいは善良さによって、その過激さは抑圧されている。だが、その過激さが時折、表面化することがある。
そのとき、その過激さが直接的に表れることはあまりない。――なんとなく遠回しで、かつ”自分可愛さ”の計算もあるかのようで――
言葉に表現するのは難しいが、言葉や仕草のニュアンスで伝わるものがある。(おおざっぱに一言で言ってしまうとウザいということになってしまうのだが…。)
女Xが愛されキャラになるためには
女Xが周囲から“なんとなく”嫌われることなく、ただの愛されキャラになるために必要なこと――。
それはただひとつ、自己否定と自己卑下をやめることである。
自らに明らかな非がある場合に、それを認めて改善に努めようとする姿勢は人としてとても大事な習慣である。
しかし、なんでもかんでも思考停止しているかのように自分のせいだと責めるのは、ただただ、品格が足りないだけの行為だ。
もし、自分に人を見極める力が足りないのであれば、人を観察して分析するようになるだけでもだいぶ変化は見込める。(経験談です笑)
自分を責め続ける人の言動をよく見極めるだけでも、自分を責める癖は改善する。
その人は自分の機嫌が悪いだけで当たり散らしているだけだったり、その人はただ自分の劣等感を刺激されて反応しただけだったりする。
また、自分のせいだと責めることで、目の前の解決しない問題を、あたかも解決したかのようにするのも間違っている。
それは自己満足に近いもので、自分を責めて責任を負っているようで、べつのどこかに責任転嫁している。
ただ、あんまりにも突き詰めすぎると息苦しくなってくるので、ちょっと緩めるのも大切だったりする。
さいごに
他人の言動を見極めることは重要だ。
しかし、それ以上に、自分の言動を見極めることが重要だと私は思う。
自分自身への理解を深めること、それは必然的に自分の品格をあげることに繋がる。
そして、他人への理解と思いやりも同時に深める。
スピリチュアル界隈でよく言う「自己愛」とは違う。むやみやたらと自分を愛そうとしても何の意味もない。
アンビバレントに陥らないための自己愛は、そういう類の自己愛ではなく、もっと深淵で落ち着いたものだ。
自分が生きていることに、自然と感謝してしまうような、そういう気持ちに近いと私は思う。