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子育てという呪い
罵倒することの罪深さ
「躾だから」
「指導の一貫だから」
「叩いて伸びるタイプだから」
そんな理由で他人を知らず知らずのうちに、あるいは意図的に罵倒している人がいる。
「うちの子はああでこうで~ほんとダメな子で」
こういう言葉がどれほど子供の心に悪影響を及ぼすだろうか。
親は謙遜のつもりで簡単に口にしてしまう。
自分の子を自慢する方がまだ聞いてられる。
実は、自分の子供を貶める話を聞いて「品が無い」と感じている人も少なくない。
言葉の呪縛
虐待――。
その一言で片づけることもできる。
しかし、ここには人間の深い闇が見える。
現代の日本人の多くが大なり小なり抱えている闇だ。
身体への虐待は大きく問題としてとりあげられるが、言葉での虐待は大きく問題となることは少ない。
「あかりは中程度のASD(自閉症)だった」
本書には、娘がそのように診断されたとある。
裁判では彼女のASDと殺人との関係は否定されている、ともあった。
ASDだから殺人を犯したのではない。
虐待と束縛。これこそが少女が母親を殺す大きな引き金となった。
あかりが母を殺そうと思ったのは、九年におよぶ医学部浪人を強制されたからではなかった。その「地獄の時間」を脱し、ようやく自分の足で歩こうとしたとき、またも母の暴言や拘束によって「地獄の再来」となることを心から恐れたのだ。
二十代のときには耐えられた、受け流すことができた「地獄」も、九年の浪人を経て大学という外の世界を見、三十歳を超えたいまとなっては、二度と戻りたくない場所だ。
あかりはこの陳述書を「いずれ、私か母のどちらかが死ななければ終わらなかったと現在でも確信している。」という言葉で締めくくっている。あかり自身には、犯行への迷いはなかった。あえて言えば、後悔もなかった。私か母のどちらかが死ぬ。それ以外に選択肢はなかったのだ。
母の存在は娘を強く呪縛していた。
身体的な虐待は体と心に大きな傷を残す。
が、そして同じくらいに、あるいはそれ以上に、言葉の虐待は脳裏に深く刻み込まれる。
言葉で深く刻み込まれた子側は、その命が尽きるまで、母親から受けた罵倒の言葉の数々が人生の節々で脳内再生されることになる。
そしてその度に、味わいたくもない感情を反芻し、くりかえし苦しむことになる。
否定の言葉だけではない。
理想を語る言葉もまた然りだ。
「この世に正しいことなど存在しない」
それを、理想を子供に押し付ける親は、あまりにも分かっていない。
「自分は正しい」
「自分の意見こそが正しい」
「お前は俺の言うことだけを聞いていればいい」
理想主義の親は、得てして傲慢になりがちだ。
「公務員になれば安泰だ」
「医者になれば立派だ」
それは確かに事実だ。
だが、子供に押し付けていいものではない。
子どもを縛る”呪い”を付与するのと同義である。
本書の印象的な母と娘のLINE
母親の遺体が発見されたのが2018年3月。
人間の胴体が河川敷で発見された。
あかりは医学部受験を目指したが、ことごとく受験に失敗し、9年もの浪人生活を経たのち、2014年に医科大学の看護学科に進学した。
2018年3月当時、娘のあかりは看護師としての勤務を間近に控えていた。
母と娘のLINE――2017/10/18
母
あんたは中高の時と何ら変わっていなかった。反省も心の成長もなく、私や母に対する責任感も持っていない。アンタの頭にあるのは、ただ自分が好きに生きるためなら人を利用して、裏切ることなんて何とも思わず、その場限りの口から出まかせが幾らでも言えて、バレたら逆切れして、最後は逃げる… 結局は自分以外の人間の気持ちなんて無視。アンタは、きっと助産師学校には行かないつもり。こうやって私も母も、まんまと騙されて終わり。
娘
いや、そもそも医大受験時も、私は別に「看護師になりたい!」と切望していたわけではなく、「ニート生活を終わらせたい!」という思いで頑張っていたので、私が助産師学校に気乗りしないことは、あまり問題ないと思います。今の気持ちとしては、看護師になりたいので、助産師学校を目指したい、ということです。
母
自分がよくよく考えて呑んだ条件ならば、嫌でも黙って全うすべきだと思います。それをせずして、事ある毎に押し付けられてやる気がしない…とは、私には理解できない。
母親の歪んだ人格がにじみ出ている。
助産師になることは、看護学科に入学していたころからの約束だったそうだ。
それゆえに、このようなLINEのやりとりとなっている。
看護学校内で行われる、助産師過程選抜にあかりは落ちてしまった。
自分の理想が叶わない母は激昂し、看護学校に入学してから普通の母娘の関係になれたと思った後、関係は以前のような最悪な状態に陥った。母の異常さは増していった。
あかりは殺人を否定しつづけていたが、母娘二人だけで暮らす家に、外部から侵入のあった形跡はない。「自殺した」という娘の主張は、つじつまが合わない。
警察があかりによる殺人を強く疑う、もう一つの「証拠」があった。あかりは、一月二十日の午前三時四二分、ツイッターに、
「モンスターを倒した。これで一安心だ。」
と投稿していたのだ。
あかりにとって、母はモンスターだった。
モンスターを殺すことに、ためらいを感じることは無かった。
親が子に与えるべきものとは
多くの親が、子にレールを敷きたがる。
それは、あかりの母親がしてきたことでもあった。
では放任主義が良いのだろうか?
「好きなようにしたらいい」
と、最低限以上のことは何も与えない、何の手も施さない、これも一つの子育て戦略ではあるのだろう。
だが、子供の心はこれで豊かになるかと言われたら、何か違うような気がする。
あかりは判決後、こう語った。
――大津の裁判所で、大西裁判長から判決の宣告を受けて、あなたはどう思った。
「自分としてはバラバラにして燃えるゴミとして出せるものは出して、河川敷に遺棄してバレないようにして、直接的な殺害の証拠というのは隠滅したつもりでいたんですけれども、殺害したことがちゃんと認定されただけじゃなくて、その殺害にいたるまでの、私の長年の、私と母の確執を事細かに、まるでずっと私の横にいたかのように認定されてるのが、すごく精緻に認定されてて、理解されるんやな理解されてるなっていうことと、
殺す前の逡巡とかも読み上げられているのを聞いて、殺そうって考えてるところとかも、何かカメラで撮られてたんかなと思うぐらい、すごく精緻な分析がされていたのと、あとは、嘘をつきつづけている私に対して、大西裁判長は、『あなたはいままでお母さんに敷かれたレールを歩まされてきたけれども、これからは真摯に罪と向き合って、罪を償い終えた後は、あなた自身の人生を歩んでください』っていう温かい説諭をしてくださったのを聞いて、他人であっても、私が嘘をついても、私が母との苦しみであったり、そういったことが理解されるんだなっていうことが分かりました」
あかりは、母親に敷かれたレールを歩むことからは生きる喜びを見出せず、絶望するばかりだった。
子にとっての「生きる喜び」とは何だろうか。
親は子に「生きる喜び」を与えているつもりで、その実、自分の「生きる喜び」の為であったりする。
いつのまにか目的がすり替わっていることがあるのだ。
与えているつもりが、何も与えられていなかった。
これが、あかりと、あかりの母との間に起こっている現象だったのだろう。
生きる喜び。
それを考えるきっかけと、機会を与える。
これもまた親が与えられる「愛」の形のひとつだろう。
男女が愛し合い、子どもが誕生する。
その日から、子は親にとって「生きる喜び」となる。
幼い純粋で愛らしい子を育てる日々は、生きる喜びそのものだろう。
だが、親は「子に対する生きる喜び」を手放す必要がある。
自らの「生きる喜び」と、子に対する「生きる喜び」は徹底して切り離してこそ、互いの自立が成り立つのだ。
共依存は沼を生み出す。
その沼は、親子の足をいつまでも離さない。
親子の共依存から抜け出すためのヒントを得る記事はこちら。
子育てという創造
呪わない創造
どんな小説も、どんな歌詞も、主観が入りすぎると魅入らない。
一冊の本があるとする。
物語は基本的には刺激の連続であり、構成と文章力で質が決まる。
そして一滴、作者の意図や主観が入ることで、世界観に深みが増す。
押し付けがましく自分の意見だけを主張しても、相手は耳を貸すことをしない。
「例え」の多様は良くないが、要所要所で使うと話に説得力が増す。なぜなら、「例え」には読み手の想像力と思考を掻き立てる余白があるからだ。
ありとあらゆるものが創造であり、芸術だ。
聞く側の想像力をかきたてるような、深い感銘を与えて考えさせるような、そういうものが美しい芸術だと私は思う。
美しいものには「余白」がある。
それは芸術作品しかり、人もそうだ。
人を育てることもそうだ。
余白のない呪縛のような子育ては異常さを生み、余白のある創造性がある子育ては人の美しさを引き出す。
子育てもまた、創造だ。
決して大げさなんかではない。
子どもは誰であれ純粋無垢だ。
それは真っ白なキャンバスのようで――。
親ができることは、子供の絵具の色を増やしてあげることぐらいだ。
―――
誰であれ、人は他人の自由意志を操作することはできない。
それは親であっても、だ。
創造はさまざまある。
100%完成させてこその芸術作品もあれば、20%完成させて完璧な芸術作品もある。
子どもは、親が100%完成させるべき対象ではない。
その役割は土台だけに留めておくのが、最良の選択なのかもしれない。
客観的なもうひとりの自分
こどもは成長過程で、もうひとりの「客観的な自分」を無自覚につくりあげていく。
「社会的模範」に則った、大多数に好かれるための自分像。
理想スコアを達成する自分像。
魅力的な自分像。
あれやこれやと「自分」を批判してくる「客観的な自分」を作り上げられない人もいるが、大多数が大なり小なり、その存在がいることだろう。
そして「もうひとりの自分」意外に「親」がいる。
想像のなかの架空の「親」はことあるごとに批判して、聞きたくもないことを頭のなかで繰り返し責め立ててくる。
そして、その言葉に縛られてしまう自分がいる。
「親」の声が大きすぎるがゆえに、自分の声すらも聞こえなくなっている。
こんな状態で、生きることに喜びを見出すことなどできるはずがない。
自分の魅力も、したいことも、好きなことも分からなくなり、気持ちに余裕がなくなり、いつもおどおどしてしまう。
結局のところ、魅力のある人とは余裕のある人であり、余裕のある人とは「客観的な自分」と適切な距離を保てている人なのだと私は思う。
その距離感が、その空白が、その人の魅力を作っている。
余裕のある生き方をできている人は、親からも批判からも適度な距離を置いている。
なぜ距離を置けているかといえば、それは「客観的な自分」と「本来の自分」に明確な境界線があり、「本来の自分」の価値が揺らがないからだ。
「客観的な自分」にいくら攻撃されても、「本来の自分」の存在価値が揺らぐことはなく、過度な自己卑下に陥ることもない。
そういう人は不思議と、他人も大切にできるし、思いやりを持っている。
子を守るクッション
「本来の自分」という強い軸を持てれば、とても生きやすくなる。
その軸はエゴであったり、過剰なプライドであったりもする。要は、強すぎる「自己愛」だ。
しかし、本物の強い軸とは、「自己愛」を超えた「愛」である。
愛はとても不思議なもので、ありとあらゆる批判や攻撃を守るクッションとなる。
誰かが誰かを批判するとき、そこには必要のない「毒」も多く入り混じっている。
得てして、その批判は「苦い薬」ともなるが、本来、人間はみな未熟なのだから誰も誰かを断罪し批判する資格など持ち合わせてはいないのである。
先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。
モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。
彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。
彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」
批判を受け取らなければならないとき、余裕のある人はそこから必要な言葉だけを受け取る。
毒はすべて取り除いてから、自分の人生に必要な言葉だけ受け取ることができている。
なぜそれが可能かといえば、毒を吸収する見えないクッションがその人を守っているからなのである。
愛はさまざまあるが、親が注いだ愛もまた、知らないうちに子を守るクッションになっている。
おまけ
おまけ:色気のある人
色気もまた空白から生まれる。
これは哲学的な話ではない。
男女問わず、本当の美しさを知っている人は「空白」を持っている。
そして、その美しさが、色気として仕草や雰囲気に品よく香り立っている。
面白キャラでも、明るいキャラでも、暗いキャラでも、感じ悪い人でも・・・、色気を纏うだけで存在に”濃度”と”深さ”と”説得力”が増すのだ。
色気はいわば背景だ。
メインの美少女の絵を際立たせるような、背景の役割をする。
真っ白のキャンバスに少女が一人こちらを振り向いているイラスト――。
背景は見る人によって変わり、あるいは、少女の気持ちや表情でたちまち変化する。
真っ白であればあるほど、様々な背景にすることができる。
そして、色んな色の絵の具を持っていればいるほど、背景に彩りと多様性を与えることができる。
心の「空白」を表すキャンバス。
そのキャンバスは、純粋であればあるほど真っ白で、余裕があればあるほど大きい。
色気は見る人の想像を掻きたてさせる。
おまけ:女性の美しさ
美しさは様々だ。
知性であったり、見た目であったり、性格の良さであったりする。
女性であれば誰でも、女という「宝箱」を持って生まれる。
時にイレギュラーな事態としてその「宝箱」に鎖がかかって開かない場合や時間がかかる場合もある。
だが大抵は、女の子は可愛いものが好きで、おしゃれが大好きだ。
自分の美しさを知るためにはどうすれば良いか?
方法はとてもシンプルだ。
自分の持っている”女”という宝箱に入っているもので自分を着飾り、鏡を磨き、その姿を見るだけでいい。
自分にぴったりなものだけが、その宝箱には用意されている。
もちろん、ある程度の基本的な努力は必要だとは思う。
肌や髪の艶を保つこと、健康的な体を維持すること、センスを磨くこと、技術を磨くこと、知性を磨くこと、例えは無限だ。
本物の美しさを知っている女性は、見た目だけに囚われたりはしない。
常に人の奥を見ている。
余裕のある女は、美しさが何かを知っている。
そして自分の美しさとは何かを知っている。
自分を受け入れてこその、美しさである。
そして自分を受け入れて、空いた「空白」に人は寄ってくる。
人は「自分を受け入れてくれそうな人だ」と本能で感じ取り、近寄りたくなるのだ。
これもまた絵で例えてみる。
少女と、花が咲き乱れる背景。
その背景にはいくつかイスが用意されている。
家のドアも開いていて、開放的だ。
心に余裕がある人は、自分以外の誰かが庭でくつろげるようなイスを用意しているような人、なのである。
「自分が嫌い」
そう思っている人はたくさんいる。
でも心の底から自分を嫌っている人はいない。
生きている以上、自分を100%嫌うことなどできない。
人は皆、純粋な心を持って生まれた。
子どもは無邪気で、ときに残酷さも持ちあわせている。
純粋さは、心と体をひとつにするエネルギーだ。
自分を、好きも嫌いもない。
おまけ:もう一人の自分
思春期頃になると自意識が大きくなって、社会の価値観と自分を照らし合わせるようになる。
すると、もう一人の自分が現れる。
自分を客観視し、あれこれと指摘し、口うるさく攻撃してくる自分が現れる。
このもう一人の、プライドだけが高いだけの自分のせいで、自己肯定感が上下して、振り回されるようになる。
そうして、自信を持てなくなるのである。
たとえば、社会不適合者やアスペのレッテルを貼られて、自分の本来の価値を見失ってしまう。
社会に馴染めない性質を持った人は、人一倍、生きることに苦労する。
あるいは、不細工のレッテルを貼られて、恋愛不信になってしまうこともある。
しかし、問題はレッテルを貼られたことではない。
「社会」がある以上、「社会」の価値観が存在し、「社会」の人間が存在する。
その「社会」に「無能」のレッテルを貼られたとしても、本来の自分の価値とは全く関係ない。
もうひとりの自分が「社会」の価値観で攻撃してきたとしても、無理に自分を合わせる必要はない。
あるがまま、で良いのではない。
「社会」の形に自分を合わせるのではなく、本来の自分の「美しさ」に自分を合わせるべきだ。
「社会」に焦点を置くのではなく、「本来の自分」に焦点を置き深めた人は意図せず魅力を放っている。
しかし、仕事をしなければ生きてはいけない。
そのためにも、「社会」が求める自分を作る必要がある。
外側の社会を信じるのではなく、いつでも内側に、信じるべきものがある。
おまけ:信じる心は美しい
恋愛で必要なのは、愛と信仰心だ。
単に宗教的な意味での信仰心ではない。
わたしたちは皆、自分で自分をつくったのではなく、生命の奇跡で誕生した。
あくまで受動的な存在でしかないのだ。
その奇跡のエネルギーは、あなたを必要とした。
それは言い換えれば神なのだが、自分が必要とされていると信じる心、そしてそれが愛から来ていること、わたしたちは愛されていると信じる心が、「宝箱」を開く鍵となる。
完璧な家庭で育った人はきっと一人もいない。
幼いころの家庭環境は、自覚している以上に潜在意識下に影響を与えている。
そこに癒しが必要だ。
癒しをあたえる人になるために、まずは自分が癒されなければいけない。
そうしてこそ、依存心はどんどん薄れていくし、見えるものへの解像度もあがり、不思議と生きやすくなる。
ひとえに「依存するな」と言われて、依存心が無くなることはない。
依存心と信仰心はある意味で真逆のものと言っていい。
信じることができれば、依存する必要はなくなる。
信じあってこその愛、なのである。
自分や他人を含めて、人間を全面的に信頼することは難しい。
しかし神は別だ。
愛とは神であり、神とは愛だ。
人は誰でも、人から愛を学ぶように、見えないところで神からも愛を学んでいる。
誰かを信じることはとても難しい。
でも、自分を深く知った人は、他人の奥の奥まで知ることができるようになる。
深い底知れない井戸を深く深く降りていき、宝箱があると信じて探した人だけが本当の美しさを知ることができる。
信じる者の心は美しい。
そして、信じて探す人にこそ与えられる。
それが真の美しさと愛なのである。