ツインレイの嘘と本当。あの人は運命の人?見分け方は?霊性開花が必要?ツインレイの霊魂が惹かれ合う仕組みを徹底考察。

はじめに

ツインレイとは

「ツインレイ」

この言葉を、スピリチュアル界隈で知らない人はいないだろう。

双子の魂と呼ばれ、近年になって浮上した概念だ。

ツインレイは元々一つの魂であったのだそう。その魂は地上に生まれ落ちるときに二つに分かれ、一般的には男女の人間として誕生する。二人は人生を共にし、男女一体となる運命にある。これがスピリチュアル界隈では定説となっているのだ。

近年「ツインレイ」という言葉が流行している。

その結果、いま目の前にいる思い人が運命の相手だと信じたいロマンチストな男女が急増中だ。

健全な恋愛ならまだしも、不倫を正当化するための根拠にしたり、ツインレイだと信じることで不貞行為の罪悪感を紛らわしている人も少なくない。

現在進行中で道ならぬ恋に足を踏み入れてしまっている人も、まずは最後までこの記事を読んでほしい。そして曇りのない目で今の恋愛が本当に実りある恋なのか見極めてほしい。

今回の記事はスピリチュアルな考察がたくさんあるので、目次から結論に飛んでそこだけ読むのもお勧めである。

なにはともあれ、たくさんの人が実りある恋愛をできるようになることが管理人の願いであり、この記事を書く原動力となっている。

男女一体

もとより、「男女一体」の概念は何千年も前から存在している。

時は何千年も遡る。

最も古いものとして、旧約聖書の創世記に記してある。

それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。

旧約聖書(創世記2:24)

聖書は神の言葉を記した地球上で最も古い書物だ。

当たり前だが、聖書にソウルメイトやツインレイの概念は存在しない。

聖書には”ふたりは一体となる”という一文はあれど、”もともと一体であった”とは書かれていないのである。

とはいえ、創世記においてイヴはアダムのあばら骨から作られたとある。

それで神はアダムをぐっすり眠らせ、彼の体から肋骨を一本取り出し、そのあとをふさぐと、 その骨で女を造り、彼のところへ連れて来ました。 「ああ、これはすばらしい!」アダムは思わず叫びました。「私の骨と私の肉から造られた、まさに私の一部です。そうだ、『男』から造ったのだから、『女』と呼ぶことにします。」

旧約聖書(創世記2:21-23)

これは男女がもともと一つであったことを示唆するものである。

事実、ツインレイを名乗りスピリチュアルの布教活動をする方々のなかには、ツインレイが存在することの根拠として聖書のこの一文を引用している人もいる。

だが、示唆するだけであり、確実ではない。

まずそもそもこの話には諸説ある。

「あばら骨」は誤訳であるともあり、実際はあばら骨ではなく「生命の母」なのだそう。シュメール語からヘブライ語に訳される際に「ti=あばら骨(肋骨)/生命」が誤訳され、つじつま合わせに「あばら骨からイブがつくられた」と後から創作されたらしい。

またある一説では、イブの前に前妻リリスがいるのだそう。リリスはかなりの悪女であったため追放され、イブがアダムの後釜となったのだ。実際は、リリスは中世における旧約聖書の研究において矛盾を埋めるかたちで登場したらしい。

上記いずれも、信憑性は無い。

ただ、聖書において確かなことは、まず神は神ご自身に似せて「人」を創造し、そこから「男」「女」に区分けをしたということだ。そして、男女は「結婚」し「一体」となるとした。堕落前に男女で差は無かった。

あばら骨あたりの話を解釈するのであれば、【地球の男女は元々一つの魂であった】という解釈よりは【地球の人間は男と女とに分けられた】というだけの解釈が正確であり、聖書に忠実であると言える。

つまり、ツインレイが存在することの根拠とは成り得ない。

ツインレイ商法

言ってしまえば、ジャンルを立ち上げる行為そのものが大儲けするための商売である。

スピリチュアルで商売している人すべてを批判しているようにも聞こえてしまうかもしれないが、そうではない。私の信念からは遠いものになってしまうので否定はするが、それは耳障りの良いものよりも真理を追究したいという私の信念からくるものだ。

すべてのスピリチュアリストが悪人ではない。

だが一部、なんの信念もなくひと儲けしたいだけの輩がいるのは言うまでもなく…。

そう、いわゆるツインレイ商法、というもの。

私はツインレイを全面否定したいわけでも、恋愛依存を全面否定したいわけでもなく、ただ正しい在り方を探し求めているだけ、である。

私自身、恋愛依存する側の気持ちが良く分かってしまう。

だからこそ、真実が欲しい。

答えが欲しい。

私が言いたいことはつまり、思いを馳せるあの人こそが私の「ツインレイ」だと思うようなことがあっても、どこかの誰かに「あなたたちはツインレイだ」と言われたとしても、盲目的に信じるのでは無くまずはひと呼吸置き、さまざまな人の思考回路を読む癖を身に着けておきたい、ということ。

善人と書いてバカと読む、であってはカモられるばかりなのである。

前置きはこのくらいにしておいて、本記事の主題はそんな社会の闇ではなくツインレイの本質に迫ったディープ考察となっている。

霊魂の仕組みから紐解く

霊肉魂のマクロ視点

まずは全体像から見ていく。

ツインレイは霊魂で惹かれ合い、会ってほどなくして互いに認識しあうと言われている。

目の前の相手が運命の相手であることを、ツインレイの二人は霊魂で分かり合うのだという。一体どのようにして、霊魂で分かり合うのだろうか。

あくまでも目に見えない世界の話であり、この類の話が推測の域を出ることは無い。

目に見えないものなんて信じない現代人が多いとはいえ、長らく人類は神や霊などの目には見えないものを信じてきた時代のほうが圧倒的に長い。

先人が思考を巡らせ、得た直感―。決して侮ることはできない。

掘り起こせば未知への想像が膨らむような仮説が数多く存在している。

(※たびたび大本教や神智学の記述を起用するが、私自身は神秘主義信者ではない。理由は記事内に。)

〇さしごの人体

ピタゴラスが発見した「三平方の定理」だが、代表的な直角三角形は3辺が3:4:5であり角度は306090度である。

音にすれば「さしご」と「みろく」だ。

「さしご」と「みろく」は物質世界を意味している。

似たようにして、霊魂の法則の基礎もまた「さしご」だと考えている。3次元、4次元、5次元に人間が存在し地上が成り立っている。そして5次元、6次元、7次元にがいる天界がある。人体は「さしご」の法則で成立している。

「さしご」と「みろく」が表していること―。それは即ち人間が物質世界の次元にとじこめられている、ということなのである。

ちなみに、1次元、2次元、3次元をそれぞれ3倍にすると369となる。また、それぞれに2を足すと345となる。更に345に2を足すと567になる。これらは何を意味しているのだろう?考察はできていないが、もしかすれば黄金比の1.618・・・が関係しているのかもしれない。

〇さしごの地球△▼△

「さしご」の法則は地球にも適応している。

イルミナティが三角定規をシンボルとしているのも納得である。

知恵の実を食べて堕落した人間は、地に落とされるなり知恵を追究したが、シュタイナーもまたその知恵を追究した一人。彼は神智学を学び神秘思想主義者となり、「人智学」という精神運動を創唱した。

そのシュタイナーによれば地球は三角錐なのだそうだ。

あまりに突然の突飛さに不信感マシマシである。

シュタイナーいわく、三角錐が膨張して今の地球の形になっているのだそうだ。

そして、その頂点にはなんと「日本」があるのだそう。

底面には、アフリカ、南米、太平洋の南部全体があります。このような湾曲した四面体、一種のピラミッドとして、地球は宇宙のなかに存在しています。これが地球のもともとの形です。四面体を形成するこれらの線をたどって追っていくと、これらの線に沿って火山があるのが分かります。

チリなどにある南米の火山、南極の周囲にある火山について、みなさんは良く聞くことがあるでしょう。コーカサスには巨大な火山があります。『ヨーロッパには火山は多くない。しかし、かつて火山があり、それが死火山になったことを、いたるところで証明できる』と、いうことができます。シュレジエンの北からブレスアウへ向かうと、奇妙な弧峰があります。

今日の人々は、この山を恐れています。この山の岩石を調べると、死火山があります。さきほどは底面のみを描きました。

いたるところに、日本に向かう線があります。

これらの線に沿って、地表に火山があります。重要な火山を描いていくと、地球の形態ができあがる、ということができます。火山が線をなしており、それらの線が地球が四面体であることを示しています。

http://oka-jp.seesaa.net/article/419679845.html#google_vignette

3:4:5の正確な三角錐にはなっていないとしても、内部構造はこのような形になっていてもおかしくはない。そこに肉付けされたように、地球は球体となっているのかもしれない。

また、こんな話もある。

「ピラミッドパワー」をご存じだろうか?

諸説はあるものの、古代エジプトでは3:4:5のこの形を使って直角を計り、ピラミッドを作ったのではないかと言われている。

三角錐には、何らかのエネルギーを集める力があることは間違いなさそうである。

さらに、三角錐でできているピラミッドは人体にも対応して建造されているという。

ピラミッドの建築に関しては、現在も疑問点が数多くある。超古代文明の存在を信じている人々は、ピラミッドの建造には「反重力装置」が使われており、それによってやすやすと重い石を高くまで運べていたとされている。

物質を非物質化する、相転移装置は、別名で、反重力装置とも呼ばれるが、その原理は、理論的に、アルキメデスの原理でわかるはずである。固体を液体化し、更に気体化すれば、大気と混じわって、質量が減じられるわけである。これは、人体の脳が1500グラムなのに、脳水の浮力のお蔭で、20グラムの負荷で済むのと同じである。

つまり、簡単にいえば、石を固体のままで運ばず、現代でも、セメントのように、液体化しているように、相転移で軽くして運び、目的の場所で、再生すればいいだけの話なんである。だから、古代アトランティス時代では、地球環境を変換できる非物質的な科学技術、人智学でいえば、エーテル技術を使って、ピラミッドなどの建造をしていたわけなんである。

だから、ピラミッドは、エーテル技術を使って書かれた聖書ともいえるわけで、現代でいえば、パビリオンといえるかもしれない。だから、物質科学だけで、ピラミッドの謎を解くことは不可能で、少なくとも、古代叡智の集大成といわれるカバラを読み解かないとダメなんである。

カバラ – Wikipedia

シュタイナーから読み解く神秘学入門「ネットの活用法その1748」

以上のことからも、宇宙法則の基礎には「さしご」があるといえる。

思えば、瞑想するときの胡坐も三角錐である。叡智を持った古代人は「三角錐」のエネルギーを知っていたからこそ、あらゆるところで活用していたに違いない。「さしご」は物質界でとても重要な法則である。

霊肉魂ミクロ視点
〇魂の仕組み

これはただの私の勘なのだが…。

魂は肉体と霊体の間を行き来している気がする。

というのも、肉体の脳みそは顕在意識とダイレクトに直結し、霊体の脳みそは潜在意識と直結しており、魂はそれぞれの体を行き来しているように思えるのだ。

つまり、肉と霊の入れ物を魂という核が行き来しているのである。三次元の肉体で思考することもあれば、五次元の霊体に入って思考することもある。

だが大抵の人々は霊を見ることはできない。三次元の肉体の世界メインで生きている私たちは、肉体の脳の思考がほとんどだろう。

私たちがちゃんとした社会生活を送れるのは、「自由意志」を持つ魂がちゃんと肉体に宿って様々な思考を繰り広げているからだ。そして、死んだ後は肉体だけが朽ちて土に還り、霊体に核となる魂が移動して無事におばけとなる…。

シュタイナーによれば、人体は肉体とエーテル体とアストラル体で形成されているらしい。海外ではミディアムと呼ばれる霊能力者が実際に見て確認したのだとか。日本語に翻訳するなら、肉体と魂(エネルギー体)と霊体としても問題ないのではないだろうか。

特に重要なことは、魂が「自由意志」を持っていることだ。

アダムとイヴは知恵の実を口にした。

人々はみな自由意志を持ってして、自分の愛する者を見極める。アダムとイブもまた、自らの自由意志で互いを愛し、その自由意志で知恵の実を食べた。

失楽園および堕落とは、愛を忘れて知恵を得たことにある。地球という刹那の物質主義世界で最も重宝するものは金と「知恵」である。つまり、彼らが持っている自由意志がこの地球に鎖のように縛られてしまったことが、堕落したということなのだろう。知恵のシンボルはだとかであるが、イブはその蛇にそそのかされた。

遅かれ早かれ、神はこうなるだろうことは分かっていた。しかし、時期尚早ではあったかもしれない。

神は人に自由意思を与えたが、自由意志魂の核となっている。

そのため、人間は自由意志を縛られると途端に病む。

男女の束縛だとかそんな次元ではなく、潜在意識や魂レベルで意思が縛られることで、内側から虚無に侵され飲み込まれていく。

まるで、コップの水に一滴の墨汁が滴り落ちて広がっていくようなイメージだ。

虚無の正体―。

それは波動の一種でもある。

〇魂の主体は「波動」のエネルギー体

テレビは色んな電波を受信して映像化できる箱だが、その電波とは情報であり、「波動」だ。

人間の体も似たようなもので、五感を通してさまざまなものを受信し、それらを神経伝達を介して脳に情報を届ける。その情報とは結局波長であり、知っての通り五感を通さずとも波動でそのまま伝えることも可能である。

ずばり、第六感だ。

波動には主に周波数・波長・波形・振幅がある。顕在意識では「判断(サヌキ)」であれやこれやと考えるが、いざリラックスすると「直感」が降りてくる。顕在意識を使っていないときに限って不思議と閃く。人間は知らず知らず、いろんなところから「直感」を受け取っているのである。

波動は言い換えれば情報でもある。これは、人にも当てはまる。

どんな情報を保有しているか、それはつまりどんな思想の持ち主なのかということだ。

「波動があう」とは「思想があう」でもある。波動が同調して振幅したとき「相性が良い」と感じる。

波動が色となり、その人が持つオーラにもなる。

ただ、「波動」はまるで糸のようにたくさんの波長が絡み合って一つの波動をつくりだしている。色んな要素が複雑に絡みあって、その人自身の「波動」が完成している。例を挙げれば無限だが、家系や血筋もあるだろうし、環境もあるだろうし、IQやEQ、時代背景、もともと持っている性格、才能などきりがない。

まあこんなのはわざわざ説明しなくとも、みんな本能で理解している。

〇肉体と霊体の「相性が良い」の違い

肉体の脳が感じる「相性が良い」という感覚と、霊体の脳が感じる「相性が良い」は異なる。

この違いを感じ取れる人は、まずいないだろう。

頭で考えたとしても答えはでない。考えれば考えるだけ、思考の迷宮に迷い込むだけなのである。

ただでさえ、人間は見た目の良さに弱い。

霊魂が求める相手を本気で探し求めている人がいるなら、ピン!と来ただけで運命の相手だと思うべきではない。ピン!と来たのは果たして肉欲からなのか、それとも神秘的なものなのか、その判断は最終段階までしないのが賢い判断だろう。

見極めるポイントはやはり「愛」の一言に尽きる。

本物の相手は、本物の愛でのみ繋がることができる。

常日頃から愛の根源に波長を合わせていれば、事は自然と最終的にはうまく運ぶようになっている。

〇愛の根源に波長を合わせる

実りある愛を育むためにしたら良いこと。

答えはとてもシンプルだ。ただ世界の美しさに身を委ねればよいのである。

自然や動物は癒しのパワーを持っている。世界は美しい黄金比率で成り立っており、世界のすべてが美しさと神秘を秘めている。

ただ、その美しさを感じ取る私たちの目は限度がある。

しかし、一人では見えなかった世界が、二人であれば見えるようになる。相手の目を通して見えていた世界と、自分の目を通して見ていた世界が融合するのである。同じ見慣れた景色が、二人で見れば何倍も美しく見えるようになり、あらゆる感度があがる。

ふたつの自由意志が、愛に包まれて融合する。

自由意志が完全に愛と調和した瞬間――、それは生命の奇跡の瞬間だといえる。

宗教視点
〇この世のゴールは「虚無」

仏教を極めても、愛には至れない。

釈迦を引き合いに出せば、答えは一目瞭然である。

仏教の教えの基本は、欲に支配されない己を保つことにある。

釈迦は釈迦に付き従う者達に対し、煩悩を克服することで悟りを開き、仏という覚者に成るために禁欲主義を課した。

だが、「性秘儀」が隠密に僧侶の間で教え伝えられてきたことも事実であり、女性を排除する一方で、セックスによる解脱の境地に至ろうとするジレンマを抱えているのである。

・ゴータマの本来の教え(根本仏教)とは、結論を非常に簡単に言ってしまえば、苦から逃れるためには、苦の原因である執着を捨てろというものである。欲望を満たそうとするから不満になるのであって、欲望を自ら根源的に捨てれば、つまり自発的に去勢すれば不満から根源的に解放される。ゴータマは苦行という自傷行為を通してこの自発的去勢の心理に達した。

・ゴータマはジャイナ教的な肉体を極限状態に追い込む方法では最終解脱の境地に達することはできなかった。涅槃(ねはん)の境地に達するために必要なことは、肉体への自傷行為(性器を切り捨てるなど)ではなくて欲望への自傷行為(性欲そのものを切り捨てる)であるとする。

・しかし、中沢新一によるとチベットにはガウタマに関したとんでもない仏伝がある。ガウタマが母と近親相姦したとか、降魔成道の際にセックスをしまくって悟りを開いたというものである。セックスのエクスタシーで体験される幽体離脱を解脱と曲解し、その境地に涅槃の境地があるとするようなチベット密教的・タントラ的・ヨーガ的・立川流真言的・中沢新一的な仏教理解では、仏教のどこが歴史的に画期的なのか分からなくなる

浦島伝説の謎を解く 著者:永井俊哉

釈迦がどのような人物であったのか、本当のことは不明だ。

だが、釈迦の教えはすべて人々を導くためにあった。そして、人々を苦しみから解放したいという強い願いがあったことも確かだろう。

釈迦自身は「輪廻転生」を認めてはいない。初期仏典では「輪廻転生」を各所で説いていたそうだが、後に、ある僧侶に「輪廻転生はあるか」と問われ回答を濁したそうだ。

輪廻転生があるかどうかより、人間の在るべき姿を追究するほうがずっと大事だったのだ。

釈迦がどんな人物であったか?

大抵の人は、慈悲深く「穏やかな笑み」を浮かべている仏像のイメージが浮かぶことだろう。

だが、本来の釈迦はそんな生易しい人間ではなかった。

釈迦の教えは、徹底的して労働と生殖を否定する厳しいものだった。(仏教思想のゼロポイント「悟り」とは何かより降魔成道でセックスしまっくたかもしれないが、最終的には全否定の境地に至り、平安の涅槃に至った。

言い換えれば「無」の境地である。なんの欲も苦しみもない、何も考える必要のない境地…それは何もないことと一緒だ。釈迦が得た究極の平安の境地、自然と共に在ることを受け入れ同化した先にある無の静けさであったと私は考える。

釈迦は、物質と欲でまみれるこの世の到着点が「虚無」であることを悟ったからこそ、厭世的に生きることで強い自制心を身に着け、執着や欲望を手放し、何もない境地に至った。この世界が誕生するゼロポイントに戻ったのが釈迦なのである。

スピリチュアル用語の意味する「ゼロポイント」も、結局は釈迦が辿り着いたその場所だろう。

愛を得ていく、愛に至る――。

そのベクトルとは真逆の境地に釈迦は辿り着いたのではないだろうか。

〇あの世のゴールは「愛」

あの世のゴールはおそらく究極の愛だ。

いや――、ゴールはない。そこにあるのはただ永遠に続く愛であり、時間の制約など存在しない。時間があるのは、いずれ滅びゆくこの物質世界だけである。

エデンの園は、祝福の地だ。カオスとは無縁の秩序があって神聖な、そういう世界であるのだろう。

聖書では姦淫や殺人や盗みなど、秩序を乱す行為が禁じられている。

人間がエデンの園を追放され、この地球で生きなければならなくなったのは、ただ単に”神の掟で禁じられているから守る”という次元から抜け出して、真理を悟って生きられるようになるためでもあるのかもしれない。

神が祝福するふたりが、不倫同士であるはずがないのである。

不倫に至るには、それなりの理由があったかもしれない。あるいは、手あたり次第だれかと寝るのは快楽や欲望のためではなく、他の理由があったかもしれない。しかし、その方法では真の「幸福」を得ることは叶わない。

これはある意味で、神がこの世界に施した自動ツールのようであり法則なのである。

なんらかの宗教の信者であれ、無神論者であれ、神のような未知の力が全地に施した自動ツールを理解することは、生きる上で役立つこと間違いなしである。

「全自動ツール」について興味深い動画があったので以下に紹介する。

求めあう男女の仕組みから紐解く

カタカムナで分かる男女の理
〇アワとサヌキ

カタカムナは、古代人の叡智そのものなのだとか。

縄文時代よりもずっと前の上古代からあるとされ、カタカムナ文献は独特の「カタカムナ文字」で記述されている。

カタカムナには、我々の住む「現象界<サヌキ>(物質世界)」と、その背後に現象界を生み出している「潜象界<アワ>(見えない世界)」が存在するとある。

男はサヌキの性質を持ち、女はアワの性質を持っている。

カタカムナでは、生命というものも電気現象とみています。そして、女すなわちアワは地球の電気を前駆流(ぜんくりゅう)によって取り込むことができる性質を持っているといいます。常に命にとって一番大切な電気性を自分の力で地球から取り込む ことができる、と書かれています。

それに比べて、男すなわちサヌキは、自分自身の力では直接地球の電気性を取り込むことができないと述べられています。

「 前駆流」とは、女が男に前駆して(先がけて)エネルギーを取り込むという意味です。

では、なぜ電気 を取り込む必要があるのでしょうか。それは、生命を維持、発展させるためです。人間は電気を帯びた粒子でつくられ、生命現象は 電気現象であり、電気が ないと人間は生きていけないのです。そのために人間はまわりから電気を取り込む必要があるのです。女は生きるために必要な電気は、自ら取り込むことが出来ます。

ところが、男は自ら取り込むことはできません。女を通してしか取り込むことが出来なくなっています。したがって男は常にそのために電気不足の状態にあり、本能的に女性を追いかけるようになります。これが男と女の最大の違いです。そして、その違いをもたらしたものは自然の理だと カタカムナは言っています。

女が前駆流 を持つことは、ほとんどの動物においても見られます。どの動物でも、オスがメスを追いかけるようになっています。蜜蜂の女王蜂 は卵を産むことが役割で、働くのはすべてメスの働き蜂です。オス蜂は子孫を残すため女王蜂を追いかけまわし ます。こういう役回りは蜂たちが決めるのではありません。天然自然のコトワリ(理)です。

天野成美. カタカムナが解き明かす雌雄の秘密: 宇宙が決めた「絶対的な男女のあり方」 天野成美のカタカムナシリーズ (pp.15-16)

「はじめに言葉があった」は有名な聖句だが、カタカムナではを最も重要視している。

シュメール文明は、スンダランドから日本そして世界へと航海をしていた縄文人が興した文明なのではないかという記事は以前書いたが、カタカムナ文献を所持していたカタカムナ人もまた、その縄文人と関係があったのだろう。

ほぼ間違いなく、縄文人は我々が想像する以上の文明の知恵を備えていた。

話に戻ると…

アワ性、サヌキ性、現代人はもはや男女関係ないだろうが…。根本的には、女性がアワ性を、男性がサヌキ性を多く持っていることは確かだ。

カタカムナにおいては、アワである女だけが地球上から電気のエネルギーを取り込むことができる、というのは個人的に非常に興味深い。

もっとも、男も女と同じように比率は違えどアワ性を持っているので、「アワである女だけ」が取り込めるというのは語弊があるかもしれない。

つまりアワ性を取り入れることで、見えないエネルギー(潜在エネルギーを高める力の源)を取り込める、のである。

要は、女性性を高めたければ、アワ性を高めれば良いのである。ちなみに現代は「サヌキ女」が増えているらしい。

サヌキ女をやめて女性性を高める方法として、まずは手っ取り早く食事から改善するのも良い。マクロビオティックは嵌りすぎると生活が縛られすぎて逆に毒だが、生活に少し取り入れてみるのは良いかもしれない。

 
〇聖三位

聖書において三位一体とは、父である神と、神の子であるイエス・キリストと、聖霊、である。

これもまた勘でしかないが、カタカムナにおけるサヌキ・アワ・チカラも、聖書の三位一体と対応するのではないだろうか。

=現象粒子のハジマリ=電気粒子が発生するまで

(中略)

(中略)

「ミ」は「イ」の実質(アマナ)

「イ」の実質はミツゴマリなので

「イ」の実質は「ミ」の集まりといえます。

「ミ」はカムミ、カムツミと呼ばれる潜象の極微粒子(存在)であり”「イ」の電気的な働きはすべてこのミの行ない(オコナヒ)なのです”

https://ameblo.jp/otaniyumiko-official/entry-12791634386.html

つまり、これを聖書的に解釈するなら、父なる神=サヌキ聖霊=アワ御子=チカラであり、地球上にある見えない電気エネルギーは、この三位一体のエネルギーなのである。

「神とは愛である」と聖書にある通り、三位一体のエネルギーとは愛である。

この三位一体のエネルギーは、意識することでより強まる。なぜなら、人間の魂の核は「自由意志」だからだ。

〇祈り

私はよく祈っている。かつて私は、カルト宗教の二世信者だったので、神道系の神や龍神に向かってごくたまに祈っていた。

母親が若干イカれた毒親だったのもあり、割と病んでいたので、日々漠然と死にたいと思っていた。

神道系の神に祈って救われることは無かったが、あるきっかけで、キリスト教の神に意識を向けて信じて祈ってみると天が開けたように感じたのである。

それからというもの、対話するイメージで祈ると熱い愛を感じるようになった。心から愛されていると知った。そして、半鬱状態の心もかなり回復し、母親もなぜかクリスチャンになって人格が変わった。

わたしは愛を感じたが、信じるきっかけも、祈りで得るものも、人それぞれ異なる。

また、神はただ愛なのではなく、人格を持った方だということも分かった。

これはただの体験談だが、要は何を言いたいのかというと、スピリチュアル的な漠然とした愛だけでこの世を捉えることはできない、ということだ。宗教は輪郭がはっきりしすぎだが、スピリチュアルはぼやけすぎである。そしてカルトは論外である。

(※ちなみに、私は過去の記事内で「あるブログ」のリンクを頻繁に張り付けている。私はいち信者として、布教のためにこのブログを書き始めたが、キリスト教を知ったのも「あるブログ」がはじまりだった。今では極端さについていけなくなって、数年前から信者をやめている。)

クンダリニーで霊性開花は危険
〇クンダリニー上昇

チャクラはサンスクリット語で「車輪」などの回転を意味する。エネルギーが出入りするところらしい。

チャクラはカバラと関連がある。チャクラの顕在化と、生命の樹は似ているそうだ。

古代ユダヤのカバラ、すなわち生命の樹とよばれる図は、あらゆる宗教の根源になっているとも過言ではない。

 

画像

https://note.com/kaimei0/n/nca9e28824ad9より引用

一方、クンダリーニはサンスクリット語で「とぐろを巻くもの」を意味する。要は蛇である。

ドリールによると、左右の鼻や、口や喉頭を自由自在に操り、呼吸する事で、スシュムナの管を通じて、エーテルを満遍なく人体に流せば、不調和や不均衡に陥っている病気を治療できるという。

スシュムナの左の管をイダ、右の管をピンガラと呼び、クンダリーニが隠れている穴をカンダと呼ぶらしい。またそのような呼び名はヨガの伝道師のヨギや流派により色々あるらしい。

ヨガは瞑想の初歩のようで、要約すると、エーテル体と肉体のバランスをとったり、エーテルを集めて、クンダリーニを用いて、未来の人生をつくるのが目的のようである。

要するに、ヨガは、人体に(エーテル)エネルギーを集める方法のようである。

重要なのは、矢鱈にエネルギーを集めても、その使い方が問題で、使い方を決めるのが、瞑想であるようだ。瞑想で、エネルギーの方向性を決めるようで、瞑想を誤ると、創造エネルギーを破壊に使ってしまい地獄をイメージして地獄に堕ちていく羽目になりかねない。

少しでも恐怖感などのネガティヴなイメージが残っていると、増幅されてしまうので、自分で地獄を創り出して、地獄に堕ちてしまうようだ。自殺などがその典型。

https://plaza.rakuten.co.jp/5dolphin/diary/201803260000/

このように、クンダリーニ覚醒の為の瞑想は危険性もはらんでいる。

生命の樹、と呼ばれるくらいなので、カバラは創世記と切っても切り離せない。

また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。

創世記2章9節

善悪を知る木で人は地に堕ちたが、逆に、生命の樹は永遠の命に至る木である。

クンダリーニ覚醒は、自分で無理やりやろうとするとクンダリーニ症候群になって、体を壊す危険性があるそうだ。だから、決して自分で無理やりしようとするべきではない。

だが、クンダリーニ覚醒とはすなわち霊性開花であり、クンダリーニ覚醒の先には、アダムとイヴがいたであろうエデンの園に近づくのではなかろうか。

〇霊性開花

では、本来あるべき霊性開花とはどのようなものだろうか。

霊性開花は自分で行うものではなく、神の手によって開かれるものである。

その霊性は、普段は感じずともに生活できますが、ツインソウルのように繋がりが深い相手と出会うと、自分は目には見えない霊的な存在なのだと、なんらかの形で気づかされます。それほどまでに、愛する相手との圧倒的な魂の繋がりを感じるからです。

そして、一旦目には見えない繋がりを感じると、そこから、あなたの霊性が少しずつ開花していきます。

まるで眠っていたお花が、急に光と水と栄養を与えられたように開花していきます。

そこからは、肉体としての自分を生きつつ、同時に霊的な存在としての自分を感じながら生きるようになるでしょう。そして、日々の生活の中で、自分が大いなるこの宇宙エネルギーと繋がっている神聖な存在であることを感じる出来事が多くなっていくでしょう。

霊性が開花していくにつれて、この3次元の地球において、物質的なことを経験しつつも、それらはそれほど自分にとって重要ではないと知らされていきます。

例えば、それまでは欲しかったブランド品や流行のものなど、それらを楽しみつつも、以前ほどの価値を置かなくなる。それよりも、目には見えない世界で感じられる喜びや幸福感が強く感じられるようになっていきます。

霊性が開花すればするほど、あなたの存在の本質に近づき、何か特別な出来事がなくても心穏やかで心地よい自分を感じることができるでしょう。

女性の方が感受性が豊かなため霊性が先に開花しやすいですが、男性も女性の霊性の目覚めに伴って、無意識にも男性側の霊性も開花されていきます。男性は、自覚がなくても、今までとは違う考え方になったり、視野が広がったり、霊的なことに興味を持つようになったりします。

もし、長年相手を想っているのに自分の霊性が感じられないという場合は、もしかしたら相手はツインソウルではないのかもしれません。自分と相手とが魂で繋がりあっているのかどうかを知る一つのきっかけになります。そして、今愛している相手との霊的な繋がりが感じられないことは、決して悲観することではありません。あなたという美しい女神を大切にしてくれて、あなたをお姫様のように愛してくれる男性が他にいるということだからです。

愛する相手との霊的な繋がりを静かに感じてみてください。今までは経験したことのないような何かをハートの奥で感じるはずです。

女神やお姫様のように愛してくれるかどうかは別として、出会ってから起こる霊性開花については核心を突いていると感じる。

 

〇セックスについて

セックスは本来、獣の次元ではなく、神聖な次元にあるものだ。

というのは、セックスによって互いに3次元レベル以上に干渉している可能性があるためだ。

サヌキが強すぎる男は、アワ性の高い女からエネルギーを取り込もうとするので、恐らく遊び人が多い。互いに愛し合っていない男女の関係性においては、女が持っている女性性のエネルギーなどたかが知れているので、満足できないのだろう。

女は受容する側なので、男と一夜を共にして行為に及ぶだけで、簡単に顕在意識より下の潜在意識のカギが開いてしまう。そして心まで許してしまう。「そうはならない」と感じる女は、シンプルに男性性が強いのだと思う。

女を畑に例えるならば…。

植物は土の中の養分を吸って成長するが、野菜などの作物を作ったあとには土の養分がなくなってしまい、そのままの土でまた新しく作物を植えると、養分が足りないために作物のできは悪くなってしまう。

これと同じように女も、多数の男と関係を持つことで精神的に”病む”ようになる。

土を入れ替えて、また良い土に戻すのは時間がかかる作業であり、もはや元の状態には戻れないかもしれない。

結論

ツインレイはいるのか?

答えはNOだ。

しかし、神が引き合わせた特別な関係であるならば、答えはYESだ。

神がふたりを引き合わせ、祝福をした。

ふたりは祝福につつまれて、互いに特別で神聖ともいえる思いを抱くようになる。

そして紆余曲折を経て「唯一無二」となる。

ふたりは一体となったのだから、ツインレイと呼んでも何ら遜色ない。

〇ツインレイプログラムの意義

誰にでも「ふさわしい時」がある。

悲しむとき、怒るとき、喜ぶとき、学ぶとき―。

しかし、これらの「とき」がすべて神から与えられた物だと理解できる人は少ない。

出会いには意味がある。

すべての出会った人から、得られる「知恵」と「感情」がある。

「知恵」は絵筆のようであり、「感情」は絵の具のようだ。

たくさんの種類と色があるが、この世に存在するすべての絵筆と絵具を手に入れられる人はいない。

それでも生きていればたくさんの知恵と感情を得られる。

本物の「知恵」は小手先のどうでもいい哲学や心理学やこの世の知識などではなく、この世を生き抜く術となる「真理」のことであり、本物の「感情」は恨みつらみの私的な怨念ではなく、深みのある様々な形の「愛」のことだ。

一度得て忘れたとしても魂は覚えている。

魂の奥深くまで刻み込まれたので、死んだ後も忘れることは無い。

ツインレイが育む愛は、数ある「愛」の形のひとつに過ぎない。

神がふたりを引き合わせたのは、ふたりの間に芽生えた愛をより大きく深いものにするためだ。そして、互いに足りないものを補い合い、たくさんの美しさを知るためだ。

もともと一体だったのではない。

神が試練を通して、ふたりの凹凸を整えたのである。

ふたりが恋に落ち交際した後、ツインレイにはもれなく「サイレント期間」なるものが訪れるそうだ。

思うに、サイレント期間とは神が4次元・5次元レベルで干渉する期間でもあるのだと思う。

ふたりが現実では逢えていない間に潜在意識下でパイプが通るようにして意思疎通するようになるのである。互いの衝突で距離ができ、切ない思いや悲しみを感じることがあったとしても、その感情すらも後から唯一無二の宝となる。

ふたりが逢瀬できない間、神はただ眺めていたわけではない。祝福するためにコツコツと見えない糸を紡ぎ合わせていた。

肉体より先に霊体を繋げる必要があるためだ。

「すべてのとき」が神からの贈り物だ。

〇二人が結ばれるとき

神はふたりの待ち合わせ場所をセッティングしている。

それがいつ、どこなのかは、誰も知らない。

もしかすれば、思い人とは他の素敵な異性を用意しているかも分からない。

でも神はふたりに直感を与える。

「ふたりは繋がっている」こと、「神が祝福している」ことを。

空を見上げると、ふと通じ合う。

心に愛が送られてきて「そうか、これで良かったんだ」と安心する。

もともと会う予定だったし、最後は結ばれる予定にある二人だ。

みな、出会うべき時に、出会うべき人に出会う。

そして、出会わなければ良かったと思う人に出会って、大切な人の良さに気づいて感謝する。

全てが神の予定調和の中にある。

創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです。それゆえ、人はその父と母を離れ、ふたりは一体となるのです。それで最早ふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。

新約聖書(マルコ10: 6〜9)

私自身は、まだ運命の人に出会った確信は無い。

だが、神は人に永遠を思う気持ちを与え、愛と真理だけは決して朽ちることは無いと教えた。

それを信じるだけで、今は十分なのである。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

Scroll to Top