今回は、古代日本王朝(および朝鮮半島)編です。
とても濃い内容となっています。
古代日本王朝をはじめ、日本神話の大国主による国譲り、邪馬台国の卑弥呼、昔から伝えられているおとぎ話の真相などについても触れています。
もちろん、シュメールとも関連づけられています。
この記事はもしかすれば、読む人によっては突拍子も無い話に聞こえるかもしれません。
単なる妄想なのかどうか…
それは記事を読んでから判断してみてくださいね(笑)
それではどうぞ!
CONTENTS
出雲と大和の「東表国」
前回、古代の日本の王朝である「東表国」が深く関わっているのではないかとお話ししました。
しかし、「東表国」という日本の古代王朝を知っている人はあまりいないのではないでしょうか。それこそ、歴史を本格的に学んでいるような人しか知らないと思います。
この「東表国」には、歴史の要であろう史実が隠されています。なぜ隠されているのか端的に言うならば、永久持続的に奴隷民を奴隷民として使っていくためです。そんなおおげさな、と思うかもしれませんが、歴史を知るとそうでもないことが分かります。
真実を知られるとまずい支配者側は、ひとりの人物にたくさんの名前をつけたり、史実を神話化したり、偽書でない書物を偽書としたり、逆に偽書を由緒正しい書物として判断基準に置いたりして、ほんとうに様々な工作をしていることが自分でも調べていくうちに身に染みて分かりました。
「記紀」は明らかに時の権力者であった藤原氏によって都合よく書き換えられた書物であるため、まるまる鵜呑みにはできません。そのため、注意深く読む必要があるのです。
「東表国」もまた、工作して隠された国のひとつだったのではないでしょうか。その存在すら正史では無かったことにされているくらいです。
そんな謎に謎を極めている「東表国」ですが、実はこの国の成り立ちや支配者は日本神話の登場人物でも説明でき、朝鮮半島の国々との繋がりや、レビ族由来の李家との繋がりなどもあったのです。
秦王国について。神話の真実とは?
「東表国」は別名「豊国」です。そして「豊国」とは「秦王国」であると考えられています。つまり「東表国=豊国=秦王国」です。
これについても根拠を述べていきたいと思います。
と、そのまえに大前提を説明しなければいけません。以下のことを踏まえながら読み進めていくとよく理解できると思います。
▶︎おおきく「出雲族」「大和族」「月派」にわけられる。「出雲族」と「大和族」は対立関係にあり、つねに争っている。だが、両者を結ぶ存在もあり、それが「月派」である。「月派」は両者に与している。
まず「秦王国」は隋書の倭国伝に記されています。
「また東に行って秦王国に至る。その住民は華夏に同じく、夷州とするが、疑わしく明らかにすることはできない。」(※隋書の倭国伝より)
読んでおわかりのように、秦王国は華夏、すなわち当時の中国である隋と同じであるという。夷州とは中華思想でいう東夷、侮蔑のニュアンスを含んだ文化レベルの低い国という意味である。隋に比べて日本は野蛮な国であるはずなのに、なぜか秦王国だけは中国を統一した隋に匹敵する文化をもっている。理由はわからないが、不思議だというのである。
「秦王国」は「徐福」によるものだという説があります。
秦からの移民のパイオニア的存在が徐福であり、徐福らは秦の始皇帝の命を受け、童男童女3000人と技術者および五穀をもってして九州に渡りました。そして徐福は国に帰ることなくその地で王となり「秦王国」を建てた。
それが紀元前210年頃です。
紀元前221年、中国では秦が斉を滅ぼし、秦の始皇帝が中国を統一します。秦・始皇帝は神秘的傾向が強い人物で、紀元前215年頃、彼は不老不死の薬を求めて『徐福(現在の江蘇省西北部、徐州出身で道教の方氏(行者)』という男を蓬莱山に派遣します。蓬莱山は東方にある伝説の島で、住人はみな不老不死であると信じられていました。徐福の話は『史記』淮南伝に載っている。
『一度、渡航に失敗した徐福が始皇帝に謁見して、三千人の童男女と百工(技術者)、五種の種子を携えて再び出発し、平原広沢を得てとどまり、王となって帰らなかった』徐福は、実際に朝鮮半島や日本列島に渡航して来たようです。その証拠は新羅や早良の土地に残されている。古代、新羅は徐羅伐(ソラボォル)と呼ばれ、国に徐がついているので、徐福一行が半島南部に立ち寄って、クニを建てたことがわかります。
その後、九州に渡来したことは北部九州の遺跡から中国製の青銅器が発掘されることから推測できます。
蓬莱山とは、おそらく「富士山」のことです。
その「富士山」を目指してきたはずが、徐福は北九州で「秦王国」の王となったのです。徐福はいないものとされていましたが、現在は研究が進み、江蘇省出身なのではないかと言われているようです。
また、隋書の倭人伝に「秦王国」の記載があったとありましたが、「隋」は581〜681年の国でした。つまり「秦王国」はその時代もまだ健在で、隋にも劣らぬほど文明を開花させていたということになります。紀元前に建てられたであろう「秦王国」ですが、だとすれば800〜900年ほど続いた国家だったのでしょうか。
だとすれば、「東表国」は1000年続いたと言われているので年代も一致します。
「秦王国=豊国」で名前のとおり秦氏も多数いたと思われます。
「豊国」が秦氏によって建てられた国であることは「聖徳太子」を追求すれば証明できます。
●秦河勝=聖徳太子は「秦王国」出身。
聖徳太子の別名は「秦河勝」でした。これについてはこちらの記事を参照してください。
さらに聖徳太子の正体に迫ってみましょう。聖徳太子もまた謎が深い人物ですが、秦氏であることは間違いありません。
その秦氏の聖徳太子は「秦王国=豊国」出身だったかもしれません。
というのも「豊国」ではやけに「…勝」と苗字の最後に勝の字がつく人物が多く見受けられたそうなのです。
秦河勝は苗字が秦で名前が勝なのですが、なぜ“勝”の字が名前にあるのかというと、“勝”が秦氏を示すものだったからなのだと思います。つまり正真正銘の秦氏ですね。
豊国に関しては古代の戸籍が比較的詳細に残っているのだが、そこに登録された人々の名前には「・・・勝」という姓が異常なほど多い。一般の苗字の下に「勝」の文字が復姓という形で見られるのだ。
実は、この復姓の「勝」とは「勝部」ともいい、「スグリ」や「マサ」「カツ」とも訓じられる秦氏の部民のことで、広い意味の秦氏なのだ。
ちなみに飛鳥昭雄による「失われたユダヤ人物部氏の謎」から引用しました。
しかしながら、飛鳥昭雄はこういった本を著作しているにもかかわらず、日本の天皇家が北朝鮮の王家と深く繋がっている事実を表に出していないことからしても天皇家に与している可能性もあります。全てを信じるのではなく、真実を見極めることが必要です。
また、豊国(=豊前王朝=東表国)について前回の記事では【東表国が蘇我の国であった】と紹介しました。
秦氏の国であるのに、どうして対立関係にある出雲族の「蘇我」の国なのか。
秦氏がもともと出雲族だったこともあるのでしょう。
しかし、他にも訳がありました。これには「大国主」の国譲りの神話が関係してきます。
●「大国主」=「秦国主」説。
まず、大前提として「大国主」は出雲族であり、「秦氏」は大和族“派”になります。そして、2者は対立関係にあります。
なぜ「大国主」の国譲りが関係するのか。それは「大国主」こそが「秦王国の主」だからでした。
つまり「大(タイ)国主」=「秦(タイ)国主」です。
註:今述べた秦王国の首長も大国主です(要するに「大国主」とは中原の秦に由来する部族の長に着けられる呼称だったのです)。北九州物部氏の大国主は、この秦王国が博多湾岸に入って来た時にそれに糾合され、丹波出雲物部氏の大国主は、この秦王国が山代に移動してきた際にそれに糾合されたということなのでしょう。
https://blog.goo.ne.jp/sophia_h/e/20e0800359836d63b131c7899be6f875
大和族に強いられて国を譲った、と古事記にはありますが、出雲風土記には自発的に譲ったとあるのです。
また大国主の別名は「オオナムチ」でした。その他にも4つほど別名があるようです。出雲国風土記においては「所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)」と呼ばれています。
ここで、大国主は素戔嗚の子孫ではなかったか?という疑問が湧きます。代々続く出雲族の子孫ではなかったか?と。
これについては素戔嗚の正体とともに後述しています。
ちなみに、大国主の父親が素戔嗚だと記紀には記されているものの、出雲国風土記にはそのような記述はないようです。
大国主がほんとうに素戔嗚の子孫だったのか…、これは怪しいですね。
●秦王国=辰王国。
更には、以下のような記事もありました。それによると「秦王国」=「辰韓」とのこと。
「辰韓」とは「新羅」の前身となった国でした。
では、いったい秦王国とはどこにあったのか。いうまでもなく、日本の正史に秦王国なる国は存在しない。考古学者の江上波夫氏は、裴世清が最終的に目指したのは朝廷であるゆえ、秦王国を大和とみなす。江上波夫氏は、騎馬民族説を唱えたことで有名だが、その説に従えば、天皇は騎馬民族の辰王に他ならず、大和朝廷のある都は辰王国といえる。(※中略)ゆえに、秦王国とは辰王国と同義だというのである。
こちらから引用
つまり、秦王国が辰韓にもあったと。しかし、国は九州と朝鮮半島の両方にありました。
朝鮮半島の秦王国を統治していたのは「月氏」でした。
──辰王とは──
魏志馬韓伝「辰王は月支国で統治する」「蘇塗の義は西域の浮屠(仏教)に似ている」
後漢書辰韓伝「秦の亡命者」「秦語に類似しているので秦韓とも呼ぶ」
この辰王というのはおそらく秦の亡命者というのは、言語が秦語とあることからも明らか。たぶん紀元前に徐福の一団が渡ったのは、この辰王国だったのではと思うのですが。
気になるのは隋書に登場する、筑紫国の東方の「秦王国」のことですよ。
辰韓=秦韓とあるのだから、辰王=秦王となる筈。
そうすると筑紫の東方の秦王国=辰王国ということで、ファイナルアンサーですよ。
「辰韓(辰王国)」とは、紀元前200年〜後356年に建てられた国家でした。
「辰韓」は「秦韓」とも呼ばれ、そのように呼ばれるのは「辰韓」に秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人がいたとされており、秦語が話されていたためでした。
『三国志』魏書巻30辰韓伝に、「名國為邦(訳:国を邦と言う)」とある[6]。辰韓(秦韓)の民は秦から亡命してきたと言うが、前漢の初代皇帝劉邦が自らの諱(劉邦)を憚って「邦」を「国」と言い換え、漢代以後の漢語では「邦」のことを「国」と言うが、辰韓人(秦韓人)は「国」のことを「邦」と言っており、かかる事実関係により、辰韓人(秦韓人)は秦語を使用していることは決定的とみられている[7][8]。
このように「辰韓」には秦の亡民で占められていた国でした。
仮に「秦王国」=「辰王国」だとしても決して不自然ではなく、「秦王国」の年代は明らかではありませんが、徐福が来た年代とも一致するので信憑性のある説なのです。
そして、この「辰韓」の「斯盧国(しろこく)」を基盤として「新羅」が誕生するわけで…。
この「新羅」からは「新羅系秦氏」が渡来してくることになります。徐福以来の、第2波となりますね。「新羅」は紀元前57年〜後935年の国家であり、この「新羅」から帰化した秦氏が「新羅系秦氏」となったのでした。
「新羅系秦氏」は「弓月君」によって率いられて来たそうですが、「弓月君」は名前の通り「月氏」です。
つまり、朝鮮半島の秦王国であった「辰韓」の時代から「新羅」になるまで、一貫して「月氏」に治められていたということです。そして、国は秦の民が流れ着いた国でもあった。
新羅の祖については諸説あります。しかし、新羅の祖が脱解尼師今だとすれば、昔氏となり、「塞氏」すなわち「サカ族」と関係する可能性があります。※昔氏の源流は不明。
これにも根拠があって、出雲族の清和源氏の家紋である「笹竜胆」の笹は「昔氏」のササから生まれたという説があるのです。くわしくはこちら。
つまり、新羅も、新羅の全身の「辰韓」も、サカ族・月氏が関わっていることになるわけです。で、「辰韓=秦王国」でした。
前回の記事でも考察したように「月氏」は「サカ族(出雲)」と対立していた部族でした。
これが意味していることはすなわち、対立していた部族がひとつになった国が「秦王国」だったと考えられるのです。それが「月派」の人間によって結びつけられたのでしょう。
いずれにしろ「新羅」および新羅の前身である「辰韓」や「秦王国」は、間違いなく「秦氏」の国でした。古来から日本は、朝鮮半島の国家と一体だったのです。
とはいえやはり、大国主の正体がまだよくわかりません。いったいどのようにして王となったのでしょうか。
大国主・素戔嗚の正体。
●本来の出雲王朝の血筋をもつ者は…?
大国主について様々なことが言われていますが、その一説として大国主は「クナト大神」の子なのだとありました。
素戔嗚は出雲の祖ですが、実はそうではなく、素戔嗚は「クナト大神」に取って代わられただけなのだ、とのこと。
素戔嗚は渡来人であるためにあまり重要視されておらず、逆に、大国主は「クナト大神」の子であるがゆえに、ヒーロー的存在として崇め奉られているのだそうです。
つまり「素戔嗚」は異国人で、「大国主」は出雲の真の祖である「クナト大神」の子だった。
出雲朝第6代大国主命は素盞嗚尊の娘スセリヒメの婿になっている。吉田大洋氏「出雲帝国の謎」で大国主はクナト大神の子であり、クナト大神は出雲本来の神として扱われている。出雲の神社では本来クナト大神を祀っていたものが素盞嗚尊に取って代わったと言い伝えられている。素盞嗚尊は朝鮮半島から渡来した父布都より誕生しているので出雲としてはよそ者となる。そのため、出雲国風土記では扱いが小さくなっており、大国主が大きく扱われていることになる。また、出雲王朝の人物を古事記では「命」ではなく「神」という尊称を使っている。このことも出雲王朝が特別な存在であることを意味している。出雲王朝は本来の出雲の王家の系統を表わしているのではあるまいか?古事記編纂において素盞嗚尊の系統につないだため、このような不自然な系図になったものと推定される。この出雲王朝の王をクナト大神と表現しているものと推察する。
このように、大国主は「婿養子」になったのです。素戔嗚の娘と結婚することで出雲族になったのでした。
そして、大国主の真の父親は「クナト大神」でした。
読み進めればわかりますが「クナト大神」も結局のところ渡来人です。
こちらの記事によれば、大国主の正体とは「クナト大神」の子なのであり、「クナト大神」こそが真の“出雲の血筋”であるとのこと。
「クナト大神」も気になりますが、まずはヤマタノオロチを討伐した「素戔嗚」とは、出雲族でないのなら何者なのでしょうか。
●素戔嗚の正体。【姫氏・吉備】
●姫氏と東夷。
検索すると「素戔嗚」と「楚」の繋がりがいくつか見受けられました。
「素戔嗚」は「楚人」であったかもしれません。
素戔嗚系・大国主系は民族的には楚人だと私は考えています。楚人は縄文時代にも日本列島に来て吉備国や有明海地方に住み着いた。(中略)
吉備国の地名由来に定説はないが、呉の国姓は姫(き)で楚の国姓は羋(び)なので、姫羋(きび)と呼んだのではないか。姫羋(きび)が吉備(きび)になったのではないかと考えています。
呉の国姓は姫とのことですが、「姫氏」といえば「箕子朝鮮」です。
「箕子朝鮮」は「殷」の末裔が流れついて作られた国だとの説があります。「殷」といえば「東夷」によって建国された説がありました。
殷だけではなく「楚」も「東夷」によって建国されたようです。
北来説の中で有力視されるものに、現在の河南省から山東省南部に分布していた東夷が楚を建国したという説がある。また土着説では、湖北から湖南・貴州省に点在するミャオ族の祖先が楚を建国したという説が有力視されているものの、どちらも有力な証拠はまだない。
出典:wikipedia
「吉備国」は「姫氏」×「羋氏」。
これが意味するのは「呉」×「楚」で「吉備」となったということ。
それでなぜか「東夷」が所々で関わっている。
さらに姫氏とは何だったか見ていきます。
●姫氏とは。
このように「吉備」には「姫氏」が関わっていました。
「姫氏」とは、朝鮮の祖だと言われています。
紀元前249年、中原にあった魯が、孝烈王(楚)によって滅ぼされると、季氏の一部が朝鮮半島に亡命、箕氏朝鮮を建国します。
※「魯(紀元前249年滅)」は「周王朝」の開祖の弟が朝鮮半島で建てた国。孔子(紀元前500年代)の出身地でもある。前述したように「魯」を滅ぼした「楚」は東夷によって建国された国説 。
箕氏朝鮮については謎が多いのですが、殷の紂王は季(キ)氏出身、周の王族、周王、周公旦、昭公も姫(キ)氏をなのっているので、朝鮮人の祖先は姫氏だと考えられるでしょう。
殷の季氏は騎馬民族で、遊牧民でした。それは彼らが食材のレベルを牛、羊、豚、鳥で、魚は下層の人々が食べるものだと考えていたことからわかります。彼らは魚やコメを主食とする人々を、東夷と呼んで蔑んでいましたが、東夷の夷は、稲を表す言葉で、現在の韓国では、コメのことをイと発音します。古代の日本人も、コメをイイと呼んでおり、イイは、飯と書きます。コメを主食とするイ族は、東アジア全域に広がって行き、伊、李、季、姫、紀、箕に変化します。
殷も周も、先祖が「姫氏」に集結する。そしてコメ・魚を主食にする人々が「イ族」と呼ばれ「東夷」と蔑まれた。「イ族」は「伊、李、季、姫、紀、箕」に変化した…。
しかしこの文章、矛盾を孕んでいることにお気づきでしょうか。
『彼らは魚やコメを主食とする人々を、東夷と呼んで蔑んでいましたが』とありますが、『彼ら』を意味しているものは『殷の季氏』なので、『コメを主食とするイ族は、東アジア全域に広がって行き、伊、李、季、姫、紀、箕に変化します。』と矛盾してしまうんですよね…。
遊牧民だったから稲作農家をさげすみ、さげすんでいた稲作農家に自ら 成り下がるのは矛盾しています。
殷もそうだし箕子朝鮮も姫氏も、諸説紛々しており断定は難しいです。
ですが、東夷が殷を建国したという説、同じく東夷が楚を建国した説、殷および周が姫氏を名乗っている説、周の王族が建てた魯が箕子朝鮮を建てた説、これらを鑑みればやはり「姫氏=東夷」と考えてよいのではないでしょうか。
●「呉」と「忌」で、「倭国」となる。
「倭国」が「呉の太白」に由来するという説があります。
「呉」は「姫氏」でした。
私たちがよく知る「臥薪嘗胆」の説話を生んだ二人の王の國が「呉」と「越」である。この「呉」は三国時代の 「呉」ではない。紀元前春秋時代の「呉」である。
「越」によって國を滅ぼされた「呉」の人々は王一族の「忌」に率いられて九州に渡来してきた。従って彼らが 来日したのは紀元前五世紀となる。彼らは先ず有明海に入り、熊本県菊池郡あたりに上陸してその地に弥生 国家(弥生集落)を建設した。「君主の姓は姫」と書かれているように初代王の名前は「忌」ではなく、本来は、「姫」だったのであろう。彼ら は「姫(忌)」と名乗り、国名は「姫(忌)國」と名乗った。「姫(忌)國」が、後の、魏志倭人伝では、「倭國」と表記さ れた。「姫」と「倭」は音が共通したからである。魏志倭人伝をはじめ、古代中国の史書には、「倭人」「倭國」と記 されたのは、正確には、「姫人」「姫國」であった。彼らは弥生文明を身につけていた。彼らが日本の弥生時代 の主役である。
時代は弥生時代。
呉が忌氏に率いられ、日本列島に入る。そのときから、日本列島は「倭国」と呼ばれた。
すなわち、倭国=姫(忌)国だったとのこと。なぜ倭としたのか、それは姫と倭の音が共通していたからだった。
これらは弥生時代ですから、秦王国が建国される以前のことを指しています。
しかし、その更に前から「呉」はミャオ族を率いて入ってきたともあります。なので、これが初めてではありません。
呉がやってきたのは、紀元前500年頃です。紀元前473年に呉王・夫差の自決と共に滅亡しますが(三国時代の呉は孫権が起こした別の国です)、中国には呉や越の民族の一部が倭国に逃れたとする伝承が昔からあるようです。
●東海姫氏。
また、日本が「東海姫氏」の国だったという説があります。
「東海姫氏」について検索すると何件か出てきますが、どうやら倭国は「東海姫氏」によって広く支配されていたらしいのです。
おそらくは、騎馬民族であり東夷であり姫氏の存在を考慮すれば、もう少し広く、中央アジアや果てはインドまで広がると思われます。
●吉備と秦王国の関係。
「吉備国」は「秦王国」と同盟関係にあった可能性がとても高いです。
古田武彦による九州王朝説には「太宰府」がありましたが、おそらくこれが「秦王国」の一部でした。古田氏によると「太宰府」は「秦王国」の首都だったのだそうです。
で、北九州の「秦王国」だけでなく、岡山の「吉備国」にも「太宰府」があったのだとか。
何しろ、学校の授業では「邪馬台国」のことしかほとんど習いませんからね。
だから、古代日本には「邪馬台国」という一つの国家しか存在していなかったと、ほとんど誰もが認識しています。
しかし、どこからどう調べてみても、古代日本にたくさんの国家があったことは確かな事実です。
そして、このように古代日本にたくさんの国家があったという説のことを「多元王朝説」と呼んでいるそうです。
この「多元王朝説」を最初に唱えたのは「古田武彦」という人だそうですが、この人もやはり古代の「九州地方」に巨大な国家が存在していたと主張しています。
ただし、「古田武彦」氏はこの「九州王朝」のことを「秦王国」とは呼んではいません。そして、彼はこの「九州王朝」の首都が「太宰府」だったと言っています。
で、この「太宰府」とは何なのかと思って調べてみると、ウィキペディアにはこう書かれてありました。
---------------------(以下、こちらから転載)
大宰(おほ みこともち)とは、地方行政上重要な地域に置かれ、数ヶ国程度の広い地域を統治する役職で、いわば地方行政長官である。
大宝律令以前には吉備大宰(天武天皇8年(679年))、周防総令(天武天皇14年(685年))、伊予総領(持統天皇3年(689年))などあったが、大宝令の施行とともに廃止され、大宰の帥のみが残された。
---------------------(転載ここまで)
見ての通り、「吉備=岡山」にも「太宰府」があったとのこと。
つまり、「筑紫」と「吉備」は当時はかなり仲が良かった、ある意味、同盟国のようなものであったと考えられるわけです。
こちらから転載。
筑紫の「秦王国」と「吉備」のどちらにも太宰府が置かれていた。この事実は両国が同盟関係にあったことを意味しているとのこと。
また、楚と呉の姓が合わさって「吉備」とのことでしたが、楚と呉は互いに争っていました。
「昭王 (楚) – Wikipedia」によれば、昭王(在位:前516-489年)の代には「東方の呉による連年の侵攻に悩まされるようになった」とある。
この頃の呉の君主は呉王・闔閭(前514-496年)だ。闔閭は前506年の柏挙の戦いで楚の王都である郢を陥落するほどの大勝をした。しかし闔閭は前496年の越との戦いで負傷し、これが元で死去した。
ということは、です。
「秦王国」が「吉備」と同盟らしいものを組んだのは、どちらも共通して、対立しあってた氏族の「統合国」だったから、となるわけで…。
基本的に、素戔嗚尊は出自が謎だとされています。
ですか、楚に出自を持ち、吉備(呉×楚)を出入りしたとするならば、素戔嗚尊は「吉備」という統合国の王だったかも?と考えられます。推測に過ぎませんが。
●クナト大神の正体。
では「クナト大神」は何者なのでしょうか。
「クナト大神」こそが真の出雲族の血筋とのことでしたが、「クナト大神」について以下のような記事を見つけました。
https://yomiagaeru.exblog.jp/24028846/
富家伝承によれば出雲族が元々奉祭していた神は、大国主命や事代主命ではなく、クナト大神とその姫神幸ノ神と子神のサルタヒコの命の3神であったようです。
クナト大神とは、聞きなれない神の名前ですが、そもそも出雲族の起源は、3千500年以上前にアーリア人の侵攻によって、日本に民族移動してきたインドの先住民ドラビダ人だそうで、クナトの大神はクナ地方に支配していたクナト王です。
(参考 斎木雲州著『出雲と大和のあけぼの』大元出版)
しかし、クナトの神といって聞きなれないのは無学な私のような者だけのようです。
“折口先生の歌、
村の子は、女夫(めお)の道祖神(くなど)の肩だきています心を、よく知りにけりなどの歌は、たぶん、酒匂川流域の、小田原在のもののようだ。男女のふるまいについて、十分にわかっていないはずの村の子供たちが、不思議な知恵で、なにをしているところかを知っていて、知った上での笑いと騒ぎをしているのを、民族学者である詩人が見ているところだ。道祖神をくなどという。そのくなは、もともと男の性器の名だ。そして、これを動詞にしたくなぐは、行為そのものをいう古語である。”
(池田弥三郎『性の民俗誌』講談社学術文庫)
(中略)また、女性史研究家の高群逸枝(→ウィキペディア 高群逸枝)によれば、縄文時代中期以降の婚姻として、「クナド方式」なる形態が出現するという。そのクナド方式の説明です。
“これらを考えると、クナドの神なるものは、数ヶ村共有のヒロバや、入会山や、交通の要路(いわゆるヤチマタや物々交換の市場)や、村の入り口に祭ってある石神であるが、その性格は一面が交通の神、他面が性の神という複雑さをもっている。
交通の神が性の神でもあるというのは、族外婚段階のヒロバのクナドを考えればわかろう。クナドは文字通り神前共婚の場所であるが、またそのことによって他群と交通し、結びつくことになる場所でもある。
原始時代では、性交は同族化を意味する。排他的な異族の間では性の交歓だけが(ときには性器の見せ合いだけでも)和平への道であり、理解への道であり、村つくり、国つくりの道でもあった。
大国主命の国つくり神話が、同時に妻問い神話になっているのも、この理由にほかならない。”
(高群逸枝著『日本婚姻史』至文堂)
「クナト」=「道祖(くなど)」=「くなぐ」=「繋ぐ」ということですね。そこから性が連想され、性を祀ることにもなるのでした。
そして、3500年以上前に出雲にはインドのドラビダ人がやってきていた。そして、ドラビダ人の王「クナト王」が「クナド大神」となった…。
突拍子もないように聞こえますがそうでもありません。ドラビダ人のいた地ではインダス文明が栄え、整然とした都市であり、そこにはシュメール出身のエラム人が関わっていたことは前回の記事でお話しました。
そして「クナト大神」と並んで出雲族に拝まれていた子神に「猿田彦」がいたとのこと。「猿田彦」はつまり「クナト大神」の子孫だったのかもしれません。
つまり「クナト大神」→「猿田彦」ということです。
出雲族に奉られていたとする3神の一体に「猿田彦」がいましたが、猿田彦は古事記では天孫降臨の段で登場し、その形相は鼻が異常に長く、猿のような面持ちだったのだそうです。
ちなみにいうと、手塚治の「火の鳥」にでてくる「猿田彦」や、「猿田」という人物が登場してきますが、それらの多くが鼻が大きいそうです。
「猿田彦」はまた、日本神話のある人物とも同一人物でした。
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http://www.ne.jp/asahi/davinci/code/history/japan/index5.html
猿田彦(サルタヒコ)は、日本神話に登場する神導きの神様の代表格。鼻が異様に長く、サルのような面持ちであった。
古事記および日本書紀の天孫降臨の段に登場し(日本書紀は第一の一書)、古事記では猿田毘古神・猿田毘古大神・猿田毘古之男神、日本書紀では猿田彦命と表記する。
ギリシア神話の「ヘルメス」がモデルだとよく指摘される。
天孫族(=天津神=大陸からの渡来民族≒弥生人)と、国津神(=天孫族渡来前の原住民=縄文人)との仲を取り持った、有力豪族の長、と考えられている。
猿田彦は、天狗のような顔をしており、新羅から渡来したインド人ではないかと思う。インドの神様は「~天」と呼ばれるが、猿田彦は恵比寿天であったと思われる。(※後述していますが、年代的にも新羅からではなくインド・スキタイ王国だったかもしれません。)
恵比寿さんは、釣りが好きだった。釣りが好きと言えば、浦島太郎であり、出雲の国譲りに出て来る事代主神(ことしろぬしかみ)だ。従って猿田彦は、大国主命(大黒さん)の子である事代主神(恵比寿さん)なのだ。
(※本来は大国主→猿田彦ではなく、猿田彦→大国主です。というのも「大国主」が「秦国主」であるように、意味は“秦氏の王”ということです。それと同じように「猿田彦」もまたクナト大神を祖とする“猿田彦の血筋の者”であることを示しているのかもしれません。「素戔嗚」や「ニギハヤヒ」も役職名であったと考えられ、時代を超えて何度も登場しています。)
事代主神は、各地の神社に祭られているが、道祖神としても有名だ。道祖神は、夫婦姿であるが、連れ合いはもちろん、神功皇后だ。神功皇后の愛人と言えば、住吉神社の祖である武内宿爾(蘇我氏の祖でもある)であるから、事代主神は、武内宿爾でもある。
猿田彦に色々な名前を付けて、実在の人物ではないように見せたのが、大化の改新で蘇我入鹿をテロ手口で暗殺した藤原不比等が作った日本書記だ。日本書記は、正統な蘇我氏の祖である武内宿爾が実在の人物だと、藤原氏のテロ手口によるインチキ手法がバレてしまうので武内宿爾を神話化したのだ。そして蘇我入鹿を極悪人のように見せた。
しかし、歴代の天皇家は、有事の時など出雲系の神社にお参りすることが多いそうだから、天皇家は、出雲が拠点であった猿田彦(=武内宿爾)の流れである蘇我氏の系統だった可能性が強い。聖徳太子が蘇我氏の系統だったことは有名だが、それを藤原不比等がテロ手口で滅ぼした訳だ。だから、藤原不比等は蘇我氏の祖先である猿田彦(=武内宿爾)の祟りを恐れて巨大な出雲大社を改築したのだ。
蘇我(入鹿)氏は、藤原氏の穢い手口で暗殺されたが、猿田彦(=武内宿爾)を祭る神社は、全国に普及し日本文化の土台になった。藤原氏が伝える文化はテロだけである。
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つまり「クナド大神」→「猿田彦=恵比寿天=事代主=竹内宿禰=住吉大神」です。恵比寿はエミシなので、東夷の夷ともつながります。
クナド大神はインド半島の先住民であった「ドラビダ人」の王で、その王が3500年前にやってきたとのことでしたが、では「猿田彦」は日本で生まれたのかといえばそうではないかもしれません。
実は、サカ族は「インド・スキタイ王国」というサカ族の国を建てていました。時代は紀元前200年〜後400年頃です。もしかしたら猿田彦は、この「インド・スキタイ王国」から来た人物なのかもしれません。来たというより、どちらの国も“故郷”として行き来していたとも考えられます。
クナト大神は天狗とも関連づけられますが、インドにはガネーシャという象の神がいますね。
そ猿田彦は「恵比寿天」であり「事代主」とのこと。「事代主」は「道祖神」でもあり、すなわち「武内宿禰」でもある。ちなみに「道祖神」は北斗七星とも関係あります。
「武内宿禰」は「蘇我氏の先祖」でもあるので、蘇我氏=サカ族とまたサカ族に結びつきました。
サカ族のスキタイは前回の記事でも言ったように「天皇」そのものでした。平安時代の王族のようなトサカをかぶり、ペルシャ人やらに供物を捧げられていた王族でした。
また、猿田彦には妻がいたとされています。岩に隠れた天照を裸踊りで外に出させた「天鈿女(アメノウズメ)」です。
いろいろ考えられますが、神話は聖書と似ている点もあり、詳細な人物の明記もあるので実際に人物はいたでしょうが、内容は旧約聖書を真似した可能性も否めません。
ですが、猿田彦〜事代主〜竹内宿禰の流れなど、これらは古事記の内容はあるていど無視した(笑)内容ではありますが、にわかに信憑性が高いのではないでしょうか。
●クナト大神とアラハバキ。
また、「クナト大神」は「アラハバキ」という神と対になっていたとのこと。
この「クナトの大神」は、「日本書紀」では「岐神」として登場し、「古事記」では「衝立船戸神」と呼ばれている。
現在は、出雲大社の東方にある「出雲井神社」に、「久那戸(くなと)大神」として祀られており、まるで導かれるようにして何度か参拝させていただく機会があった。
さて、上述した「出雲神族」の末裔で、一子相伝の「口伝」により古代の歴史を伝えてきた「富(とみ)氏」の伝承がある。(参考文献・・・「謎の出雲帝国」吉田大洋 著・徳間書店 ほか)
その伝承によると、その「出雲神族」は、東北方面から出雲に移住してきたということである。
なかでも注目すべき口伝に、『我々の大祖先は、「クナト(岐神)」の大首長だが、もうひとつの隠された女首長に「アラハバキ(荒吐神)」があり、体制側によってこれらが抹殺されようとしたとき、「クナト」は「地蔵」に、「アラハバキ」は「弁才天」へと変身した。』とあるそうだ。
実は私は、この「クナト」と「アラハバキ」が深い関係にあり、しかも男神と女神のペアだと知ったのは昨日のことである。この東北の神として聞こえた「アラハバキ」は、先日のブログでも取り上げた「遮光器土偶」がその神を象ったものとされ、その土偶が女性の特徴を強調していることからも女神と認識されている。(参考記事・2008年6月12日の日記)
ちなみに、北海道は倶知安のアイヌ酋長の話によると、アイヌの古語で「クナト」は「男根」、「アラハバキ」は「女陰」の意味で、本来は一対のものだったということである。
アラハバキ…聞きなれないかもしれませんが、見たことがある人は多いと思われます。
アラハバキは記紀にも風土記にもまったく登場しない神なのですが、そのアラハバキの多くは「土偶」として知られているのです。
画像にもあるように「長髄彦(ナガスネヒコ)」も信奉したそうです。
「長髄彦」には「髄」の字があり、「髄(スネ)」と呼びます。これは「脛(スネ)」と同じで「脛(はぎ)」でもあります。
アラハバキの表記もまちまちですが、「荒脛」もあります。なぜかは不明ですが「脛」が共通していますね。
またアラハバキは「塞の神」とも言われているのだそうです。クナト大神も同じです。
サカ族は中国表記で「塞」でしたね。つまりそういうことです。サカ族で、インド出身で、塞氏=釈迦です。
アラハバキ神は塞の神であるという説もある。塞の神は村外れに祭られる道祖神であり、集落を疫病や戦、招かざる客から護るとともに、夫婦和合の神でもある。陽石や陰陽石、夫婦のレリーフなどで表される。また、アラハバキ神を祭る神社の多くは磐座(いわくら)を御神体としているため、出雲の磐座信仰との関連を指摘する者もいる。
磐座とはつまり「巨石信仰」です。
飛騨王朝があったとされる岐阜県の「位山」には数々のペトログラフ(古代文字)が見つかっています。
大分県の「国東半島」でもペトログラフがたくさん見つかっています。「秦王国」は福岡の筑紫にあったとされていますが、大分県にもあったという説があり、おそらくどちらにもあったのだと思われます。どちらにもあったというよりは2つで1つだったのでしょう。
そして、国東半島のペトログラフの解読に成功したとの記事がありました。
そのペトログラフは3種類の文字で書かれていたのだそうです。
すなはち・・・・
【アヒル草文字】を使っていた出雲族
【豊国文字】を使っていた日向族
【出雲字】を使っていた大和族 (法隆寺に秘蔵されたということは関西を拠点とするニギハヤヒ系?)そして、第25代ウガヤフキアエズの命は、これら3部族をまとめていた可能性が高いということになります。
でなければ、敵国の文字を使って記念碑を残す必要は全くありませんよね。
つまり、3部族のみんなに分かるように、3カ国語で表示された「3部族の統合を象徴するモニュメント」であるということです。こちらから引用。
ウガヤフキアエズが誰なのかはよくわからないのですが、このサイト主によれば25代目のウガヤフキアエズは紀元前200年〜前100年頃らしいです。
記紀ではウガヤは1人とされてますが、古史古伝のウエフツミなどによるとウガヤは複数代続いた王朝の王なのだそう。
25代目のウガヤは「秦王国」の時期と一致し、国東半島ということからも、ウガヤフキアエズは「秦王国」の王だったのではないでしょうか。
それも年代的に、「秦王国」の初代の「大国主」の可能性があります。
何代か続いた出雲族王朝の25代目でもあり、秦王国の1代目でもあったのではないでしょうか?
秦王国1代目であると示すものとして、3ヶ国語で表示された「統合のモニュメント」がそれだったのかもしれないのです。
とはいえ、統合されたといっても、仲良しではなかったようです。
大和族の「卑弥呼」と出雲族の「卑彌弓呼」が争っていたというし、大和族と呼ばれる部族と出雲族が絶えずぶつかっていたことは間違いありません。
統合できても一枚岩にはなれなかった、という見方ができます。
しかし、別の見方もできます。
というのも、一番上の王族だけ繋がっており、その下だけが争っていただけだったとも考えられるのです。
黒幕にとっては、争わせるのも政策のうちだったのではないでしょうか。
つまり、シュメールの王族であろう「サカ族=インド=猿田彦=クナト大神」と、「秦氏=李氏=姫氏」の王族は、大和族と(下位の?)出雲族が争っているのを『高みの見物』していた、ということ。
これこそまさに『分断統一』です。
統一国家(NWO)といい、分断統一といい、これらはイルミナティー の思想そのものと通じます。
彼らによって争わされていたであろう大和族の「卑弥呼」や、反対勢力の出雲族はいったいどのようなものだったのでしょうか。
ここからは卑弥呼の邪馬台国や、奴国、狗奴国について見ていきましょう。
邪馬台国・奴国・狗奴国
邪馬台国「卑弥呼」の正体。
●卑弥呼=神功皇后、説
「卑弥呼」は「天照大神」と同一人物であるという説がまかり通っていますが、違うと考えます。
おおよそ「卑弥呼」と「天照」を同一視して歴史を混乱させたいのでしょう。事実、同一視すると頭が混乱してきます。
では「卑弥呼」は何者だったのでしょうか。
「卑弥呼」については「神功皇后」と同一視する説があります。
ただし「神功皇后」は4世紀の人物であることが通説であるため、「卑弥呼=神功皇后」はトンデモの枠になります。
しかし、「卑弥呼=神功皇后」説もまんざらデタラメではなく、それなりに根拠もあるようです。
くわしくは次回の記事で説明したいと思います。
また、猿田彦こと竹内宿禰は、神功皇后の愛人だったとのことですが、「蘇我氏」が意図的に徹底して記紀から消されてるのをみれば、やはり大国主だったんではと考えられるのです。
まぁ、あくまでも推察なのですが……。
また、卑弥呼が大国主(出雲族)の血も引いていたであろうことは、魏から倭人への派遣者とつしてサカ人担当官が当てられていたことからも推察できます。
そのサカ人担当官は「塞曹掾士張政」だったそうです。
⚫︎塞曹掾士張政
魏の帯方郡の武官です。塞曹掾士(さいそうえんし)張政(ちょうせい)という人が、倭の担当をしていました。
塞というのは中央アジアのサカの中国表記なのですよ。
なんで倭人との対応に、サカ人担当者が当てられたのかは、従来の考えではまったく説明できないことです。この人は塞(サカ)の言語を駆使できたと思われます。
倭人にサカ人担当官が当てられたのは、それなりに意味があったと考えたほうがいいです。後半で理由を書きます。
(中略)
というふうに、当時の倭の中央にいた主要人物は、全員が烏孫や中央アジアに先祖を持つものか、その出身者、と見られたのですね。
卑弥呼の烏孫起源説が唱えられていますが、それよりも前から日本には中央アジア出身の人物が多くいたと考えられます。
大国主とはおそらく純粋なクナト大神=クナト王(インド=サカ族)と月氏つながりの秦氏による統合国の王を意味していたのではないでしょうか。
卑弥呼は「邪馬台国」の女王でしたが、邪馬台国と争っていたとされるのが「狗奴国(クナコク)」の卑弥弓呼でした。名前は似ているのに、どうやら仲が悪いようでした。
その「狗奴国」とはどういった国だったのでしょうか。
奴国・狗奴国・倭奴国とは。
●奴国・狗奴国(出雲)
「狗奴国(くなこく)」は「奴国(なこく)」の分国だという説があります。
3世紀の倭国で邪馬台国の尽きるところである南に位置する。その名称からも、元は奴国の分国ではないかという説[5]があるが、志賀島出土の金印の鈕が蛇であったように、奴国は龍蛇信仰を持つ部族(海神族、広義の弥生人)の国家であったことに対し、狗(犬)奴国は犬狼信仰を持つ部族(縄文人)の国家である故に名づけらと名称と見る説もある[6]。
男王卑弥弓呼(一般的には「ひみここ、ひみくこ」と読むが「ひこみこ」(彦御子)とする説がある)がおり、官を狗古智卑狗(一般的には「くこちひこ」と読むが「きくちひこ」(菊池彦)「かわちひこ」(河内彦)とする説がある)と言った。邪馬台国の女王卑弥呼と卑弥弓呼は「素より和せず」戦闘状態にあったが、この戦いの最中に卑弥呼が死去したという。
出典:Wikipedia
しかし、上記にもあるように「龍蛇信仰」であった「奴国(なこく)」に対して、「狗奴国(くなこく)」は「犬狼信仰」だったそうです。
そのため、この「狗奴国(くなこく)」は「匈奴(きょうど)」のものであった可能性があります。
匈奴は、戌の日に祭天をする。・・・狼も含めて犬族です。
匈奴の後継者の、高車、柔然、突厥は、狼信仰者で、やはり犬族です。
四夷のひとつに「犬戎」があります。「犬戎」はのちの「匈奴」であるとの説もあります。
中国,古代に陝西,山西方面にいた部族。西戎の一種。しばしば『国語』『左氏伝』などの古典にその名がみられる。特に西周末期に威をふるい,西周の幽王を殺したため,周は東の洛邑に都を移すにいたったという。のちの匈奴であろうとする説もある。
出典:コトバンク
これだけではありません。
「邪馬台国」の女王と対立していた「狗奴国王」の「卑弥弓呼」は「=武埴安彦」である可能性があります。そして「武埴安彦」の名前には「匈奴」が隠されている可能性がありました。
崇神天皇に抵抗した武埴安彦=狗奴国王卑弥弓呼
ブログの右側で宣伝してる2つの拙著に度々書いてましたが、武埴安彦というのは、狗奴国王、卑弥弓呼と同一人物なのです。
名前からも分かります。
埴安彦 Ha-Ni-安-Hi-Ko
卑弥弓呼Hi-Mi--Ku-Ko
卑弥弓呼は、卑弥安弓呼だったんじゃないかと思います。
で、この埴安彦の名前にも匈奴が見え隠れしてます。
埴 Ha-Ni
匈奴Hu-Na (Ku-Na)
狗奴Ku-Na
匈奴は地域・時代・民族により呼称が異なり、フン、フナとかいいましたので、武埴安彦はなにか匈奴と関係あるのかもしれません。
ところで、こういうフンとかフナとか言うと、歴史的名称でさえも、汚いものを連想してかけあわせる人がいたりするのですが、そういう悪魔の悪戯的な陵辱は、この場面ではまったく必要ありませんので、お願いいたしますね。
そういえば古事記によれば、武埴安彦(建波迩夜湏毗古)の父は孝元天皇なのですが、母親の名前も波迩夜湏毗売で、波迩がやはり匈奴を表していて、この女性が匈奴人だったのかもしれんです。もちろん推定ですが。
匈奴とは即ち、カタカムナ文献を持っていたとするチュルク族であり、確実に出雲族です。
このように「邪馬台国=大和」と「狗奴国=出雲」の対立図式が成り立っているのでした。
匈奴はまた、サカ族から分かれた種族でした。
匈奴とサカ族、そして両者をつなげる夏王朝から説明していきます。
●匈奴=サカ族=蝦夷。
そもそも匈奴とは何者かというと、『史記』匈奴伝は「匈奴の祖先は夏后(かこう)氏の末裔である」と記している。夏后は最近その実在が実証されつつある夏王朝のことだから、夏が殷に滅ぼされたのちに、夏后の一部が北方の平原に逃れていったのかもしれない。
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匈奴の正体はよくわかっていませんが、上記にあるように先祖は「夏王朝」だと「史記」にはあるようです。
その「夏王朝」は「猿田彦」とも繋がりがありました。
⚫︎神能より古くから伝わる神楽舞
備中神楽の猿田彦命の舞は、神能と呼ばれる神話劇より古くからあった神事で、本来は神職が神服をまとい神事として行われていました。
天孫降臨で道案内をした猿田彦命の神徳にちなんで、諸事の事はじめの先祓いとして、邪魔外道を祓う役目です。
その舞の足の動きは独特のもので、反閇(へんばい)と呼ばれる秘儀足法・歩行法となっています。
これは、道教の歩行呪術が日本に伝来してそう呼ばれるようになったものであり、あらゆる舞踊の基礎に取り込まれていきました。
陰陽道、修験道、密教、神道、田楽や神楽、念仏踊り、歌舞伎、猿楽から能楽、相撲の四股などにそれが見られます。
一説によると反閇は、中国の四千年前の幻の王朝「夏(か)」の始祖「禹王(うおう)」の歩行法が源流とされ、禹歩と呼ばれることもあります。
道教での禹歩は病気を治したり、長生きをしたり、山中に分け入る時や、鬼神を呼び出すためのものですが、日本に伝来してからの反閇は、悪鬼や邪霊を祓い清め鎮めるための歩法となっています。
古くからあったであろう備中神楽の猿田彦命の舞では「反閇」の秘儀足法があり、「反閇」の源流は「夏王朝」にあったとのことでした。
推測の域をでませんが、「夏王朝」も「殷王朝」もサカ族が関わっていた王朝だったのかもしれませんね。
そして、「匈奴」は祖に「夏后」をもつ。
これで間接的に「サカ族」と「匈奴」に繋がりがみえましたが、直接的な繋がりもありました。
なんと「匈奴」には「スキタイ・サカ」出身が多かったのだそう。
以下はこちらから引用。
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蝦夷の生活様式と風貌、それに気質を調べますと、どう見ても匈奴です。本当にありがとうございました。
ではその根拠が記してある、『日本書紀』(宇治谷孟・訳)を見てみよう。
「いま東国に暴れる神が多く、また蝦夷が全て背いて、人民を苦しめている」
「かの東夷は性凶暴で、陵辱も恥じず、村に長なく、各境界を犯し争い、山には邪神、野には姦鬼がいて、往来もふさがれ、多くの人が苦しめられている。その東夷の中でも、蝦夷は特に手強い。男女親子の中の区別もなく、冬は穴に住寝、夏は木に棲む。毛皮を着て、血を飲み、兄弟でも疑い合う。山に登るには飛ぶ鳥のようで、草原を走ることは獣のようであるという。恩は忘れるが恨みには必ず報いるという。矢を髪を束ねた中に隠し、刀を衣の中に帯びている。あるいは仲間を集めて辺境を犯し、稔の時をねらって作物をかすめ取る。攻めれば草にかくれて、追えば山に入る。それで一度も王化に従ったことがない」
このあと蝦夷は、東征した日本武尊によってフルボッコにされてしまいます。
この一文の中で、東日本の蝦夷が匈奴であるとの仮説に、最も信憑性が感じられるのが「血を飲む」という情報です。
血を飲むといえば、吸血鬼ドラキュラ伯爵というのはよく知られてますが、この人は実在の人物じゃなくて、作家、ブラム・ストーカーによる1897年発表の小説「ドラキュラ」内の、架空キャラなのですね。ヴラド3世という実在の人がいまして、その人のニックネームがドラキュラだったので、その名前だけ拝借して、吸血鬼ドラキュラを小説に生み出したということだそうです。モデルのヴラドさんが、血をたしなむ方だったわけではないのです。
でもドラキュラの舞台がルーマニア、というのはなにか根拠になったものがあるんじゃないかと思いましたが。
実はルーマニア地方は、紀元5世紀頃、スキタイという騎馬民族の居住地だったのですけど、このスキタイは、血を飲む風習を持ってた民族なのですよ。
この血を飲む伝統を忠実に踏襲してきたのがドラキュラという設定が、あったのかなかったのか、と妄想してみたりするのですが・・・。
つまりスキタイ・サカと同じ風習を持っていた匈奴は、この血を飲む文化も踏襲していたとしておかしくないということになりそうです。実際匈奴にはスキタイ・サカ出身の人々も、入り込んでいたでせう。
────
以上のことから「蝦夷」=「匈奴」=「サカ族」=「夏王朝」の図式が成り立ちます。
匈奴とサカ族が同族だとしたら、あらゆる辻褄があってしまいます。
たとえば以下のようにも。
蘇我氏はサカ族でした。
—kanae (@melonpanoichi)May 27,2019
蘇我氏=真名野長者(般若姫伝説)=山王神(=猿)=「インドから来た」
蘇我氏は「山王神」を信仰。また仏教を推進。https://t.co/fhoNX5Zbow
源義経=チンギスハン=サカ族https://t.co/gdCxANXIZP
山王=新羅伎=新羅王?
山王信仰の神社で大山咋神と大物主神を祀るpic.twitter.com/yKdkHxlo8i
またまた「夏・殷王朝」ですが、どちらも祖は姫氏なのではないでしょうか。
姫氏=東夷であるなら、殷の東夷説があるのもうなずけます。やはり姫氏同士で派閥が分かれていたのかもしれません。
中国王朝が姫氏によるものが多いことは間違いありませんが、そのなかでも派閥があり、争っているのだと思われます。
また、ツイートにもあるように源氏は白を用いていました。
源氏とはサカ族やその他の氏族を連合させた氏族なので、源頼朝がチンギス汗だといわれていることも、そして白服を纏っていることも納得なのです。
●源氏は白、平家は赤。
さらにこの説について述べると、
義経=チンギス汗説とはおおまかに、義経が死亡したとされる1189年のあと、大陸へ渡り、チンギス・カーンとなった、というものです。
義経は源氏ですが、源氏は「白」がモチーフ色であるといわれています。この「白」をチンギス汗もよく用いていました。
チンギス汗が創設した遊牧国家であるモンゴル帝国は匈奴の一種でしたが、そのチンギス汗が登場したときの白い軍旗や、肖像画にもあるような白い服、白い天幕など、なにかと白だったのです。
シーボルト
まず彼は二人に関する年代的な一致点に注目し、義経が死んだとされるのは1189年であり、その後蝦夷から大陸へいけば1190年代にモンゴルに到着したことになる。一方、チンギスカンは生年月日が不詳であり、前半生の資料が少なく、1190年代に突如としてモンゴル中央平原に出現し、可能性があるとした。またチンギスカンが登場したときの九つの房をつけた白い軍旗や、モンゴルや中国になかった長弓をチンギスカンが得意として使い、これは義経がモンゴルに持ち込んだと考えた。さらに、日本では、神武天皇以来日本諸侯の爵位として「守」(かみ)といい、義経は「かみ」すなわちモンゴル民族の「カーン」になったのではないかと考察した。ただし、カーンについては『元朝秘史』に他部族の長を合罕と称するという記述があり、日本とのかかわりは指摘されていない。
モンゴルの宮廷習慣と日本貴族との共通点
ほかにもモンゴルの宮廷習慣と日本の貴族たちの習慣に共通点が多いこと、たとえば城壁の外装は”幕=MAKU”といい、紋章を用い、朝廷や祝宴では白色が用いられること、白い天幕に「シラ」という名称をつけること、さらにはその頃に日本独特の長い弓と矢も用いれられるようになったということ、中国で一般的に用いれられていた短い弓や矢とは明らかに違っていたこと、中国人に非常に恐れられたため、「長い弓の盗賊」と呼ばれるようになったこと(『小シーボルト蝦夷見聞記175 頁)……などと挙げながら実証主義の姿勢でこの説を構築していった。原田信男は殆ど言葉遊びに近く、単なる推測の域を脱していないと否定的である。[25][26]
出典:wikipedia
このようになにかと白を重要視していたことは間違いありません。
義経=チンギス汗説を否定する学者も少なくないそうですが、これまでの壮大な歴史の流れをみれば、まったく不自然ではなく、むしろぴったり辻褄のある話だとわかるのではないでしょうか。
そもそも、「白」という言葉自体に、「新羅=シイラギ」や「猿田彦」の意味が込められていいます。蘇我氏にも崇められていたという「猿田彦」が「しろんご」「白髭明神」と呼ばれていたのは、彼が「白」をよく用いる人物だったからと考えられます。
以下、こちらから引用。
────
サルタヒコの口と尻が赤く輝いていたということは、古代人の色彩感覚からすると、赤の「彩度」を表わすのではなく、「明度」を表わした
色ではなく、〝明るさが著しかった″という意味なのである。
この明るい輝きは、しばしば鏡の反射がこれに例えられた。
色で表わすとすれば、白である。
多分、伊勢や鳥羽には、猟師や海女や航海者が目印とした明るく輝く鏡のような山や壁があったのだろう。
夜間はそこに火を点したかもしれないが、昼は陽光を浴びて輝いていた。
こういう目印が「しろんご」だったのかもしれない。
「しろ」と「白」、これには「明るく輝く」ことが封じ込められていた。
よって、サルタヒコは白く輝いた神だったと思うのである。
鳥羽あたりには、海女の本拠地とされる「いじか(石鏡)」という湾がある。
海女が神と崇める「しろんご」、すなわちサルタヒコが、なぜ「白髭明神」と呼ばれたかといえば、その白さのせいであった。
白い輝きが果たした、多大な貢献の故であった。
わたしが住んでいる東京周辺には、「白髭神社」が数多く存在している。
たとえば埼玉には、旧高麗郡に大宮神社があり、別名を「白髭明神の社」という。
社伝によると、高麗の人が王を始めとして1799人もの集団で当地に來住し、耕作を伝えた。
高麗王は亡くなる日に髪も髭も共に真っ白だったので、「白髭明神」と言われるようになった。
つまり「渡来人の神」なのだ。
八幡の元祖である宇佐八幡の縁起話にも、神功皇后が三韓征伐に出かける際、一人の白髪の老人が案内をしたと言う話があり、これが住吉大明神だと述べている。
同じように「白髭明神」をまつる近江国では、白髭の神をサルタヒコだと指名している。
この説が広がって、「白髭=サルタヒコ」という結びつきが全国展開したらしい。
だが、どの伝承を見ても確実に言えるのは、「白髭」が「高麗」あるいは「朝鮮半島」の国人に関係している点だろう。
中島理一郎氏は、「白髭」の起源を朝鮮語に求めている。
「白髭」を音読みにすると、「ハクシ」になる。
この「シ」は、「亜細亜=アジア」のように、音韻変化して「サイ」に転じる。
すなわち「白髭」もまた「はくさい」という読みになる可能性をもつ。
さて、朝鮮半島にあった百済だが、添え声にすぎない「ラ」を除くと、国名は「クダ」となる。
これはもと「クサ」という発音をし、これに漢字をあてて「白済(クサイ)」としていた。
百は白を字母としているから、発音も「ク」に従う。
ゆえに韓音「クサ」は、漢字では「ハクサイ」と読める。
また、「白山(ハクサン)明神」の「山」も、漢音は「タル」・「ダル」であって、「白山」すなわち「クダル」である。
すなわち「白髭」や「白山」は、朝鮮・百済を表わしている。
一方、播磨には「吉備真備が、遣唐使の任を果たして明石に戻ってきた時、白く輝く山肌を持つ山に注目した」という伝承が残っている。
吉備真備がこの山に登ってみると、そこには朝鮮から渡来した神であるスサノオ、あるいは別説では、スサノオの化身である「牛頭天皇」が、光る山の上に出現した。
そして「我を祀れ」と要求したので、吉備真備は山上に社を築いた。
これを広峰神社といい、「祇園信仰」の原点と言われている。
そしてこの広峰山の神は、古くは「白国の神」と呼ばれていた。
ここでも白く輝いた神に、「白」の字があてがわれているのだ。
「白国明神」は、今では広峰神社とは別に「白国神社」に祀られている。
いずれにせよ、「白国」の「シラ」は「新羅」の「シラ」を指し、ここがもと新羅の人々の定住した所だったことを明示している。
高麗も百済も新羅も、ことごとくが「白」で統一される理由は、そこに朝鮮渡来の人々が住んだことにある。
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「神功皇后」が「三韓征伐」したとありますが、これは大嘘です。詳しくはこちら。http://vergil.hateblo.jp/entry/2014/09/09/204858
また、この三韓征伐をする際に「白髪の老人」が案内したとあります。そして、この老人は住吉大神であった。
これは、「神功皇后の愛人が、住吉神社の祖=武内宿禰だった」という先の引用文中にもあったような事柄とも一致します。
つまり、神功皇后は朝鮮半島へ三韓征伐をするために渡ったのではなく、愛人の武内宿禰(サカ族=蘇我氏)に連れられて訪問しただけ、なのでした。まったく笑えるようで笑えない話です。
わたしは先に、サルタヒコはサカ族の国である「インド・スキタイ王国」出身であるかもしれませんと書きました。
しかし、この記事ではサルタヒコが百済人であると書かれています。百済についても記述するべきですが、あまりに長くなってしまうのでここは大目にみてください(笑)
現在、日本における支配者や有名人の氏族をたどっていくとほとんど「清和源氏」に行き着くそうです。詳しくはこちら。http://rapt-neo.com/?p=40678
その「清和源氏」はというと「笹竜胆」を家紋としています。そして、笹竜胆といえば源頼朝や義経ですが、義経=チンギス汗もまた「笹竜胆」を用いたのだそうです。
この説の中に笹竜胆の紋章を使用したという[15]説があるが、清和源氏の紋章である笹竜胆をチンギスカンの軍がこれを使用したとするものである。しかし、微妙にデザインが異なり、源氏と関係あるかどうかは判別ができない。ロシアのナホトカの住居にこの笹竜胆を使用したものがある[16]など、多少の日本人と大陸との交流があったかもしれないが、この説を肯定する程の証拠にはなっていない。尚、笹竜胆の紋章は義経の属する清和源氏のものではなく村上源氏のものであるとする意見があるが、河内国石川郡発祥の石川氏は、源義家(清和源氏)の子・源義時を祖とし、代々石川郡を本拠とした石川氏の家紋が、【石川竜胆】という紋である(羽継原合戦記)。笹竜胆は、村上源氏(六条・久世(くぜ)・岩倉・千種(ちぐさ)・梅渓(うめたに))以外に宇多源氏(綾小路)も使用している。また鎌倉市は笹竜胆を源氏の正紋とみとめ、鎌倉市の市章に使用している。[17]
出典:wikipedeia
それだけではなく
サカ族の中国表記が「昔」で、新羅の第4代王とされている「脱解尼師今(だっかいにしきん)」の姓が「昔」でした。新羅の起源がこれまた謎なようで、朴氏・昔氏・金氏の3つの王系に由来を持つとされているのです。
新羅「脱解尼師今」始祖説によると、以下のようになります。
倭国東北一千里のところにある多婆那国王妃が妊娠ののち7年たって大きな卵を生み、不吉であるとして箱に入れて海に流された。やがて辰韓に流れ着き老婆の手で箱が開けられ、中から一人の男の子が出てきた。箱が流れ着いたときに鵲(カササギ)そばにいたので、鵲の字を略して「昔」を姓とし、箱を開いて生まれ出てきたことから「脱解」を名とした。長じて第2代南解次次雄娘(阿孝夫人)の女婿となり、のちに王位を譲られた。
出典:wikipedia
明らかに朱蒙の始祖伝説の影響を受けていることがわかる(卵から生まれた建国者)。流れてきたのを老婆が拾って開けたというのは桃太郎のおとぎ話のようでもあるが、それはとりあえずおいておこう。
「秦王国=辰韓」で、「辰韓→斯盧国→新羅」でした。そして「新羅」の王は、「多婆那国」王妃から生まれた大きな卵がまるで桃太郎のように流されて、老婆の手から取り出されて誕生したのでした。
倭奴国
続いては、倭奴国。倭奴国も謎ですよね。
時代は秦王国よりも前に遡ります。
また、これについてとても分かりやすい記事がありましたので、画像と見出しをつけつつ、文章はそのまま紹介させていただきます。
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●天之御中主神と倭奴国。
神武在位を、BC52~14年とする。これより、300年遡った時代に「天之御中主神」が現れた。「天之御中主神」が現れたのは、BC352~314年頃である。
姫氏の祖「忌」が渡来したのは、遙か昔、紀元前473年頃のことである。
姫氏系図九代の王「阿米」は姫氏 系図から考察して、紀元前345年頃の王と思われる。一方、伊勢國風土記に記された「天之御中主神」は BC352~314頃の神と推定できる。「阿米」と「天之御中主神」はほぼ同時代である。二人の生きた時代は一致する。
(中略)「(アマ)」とは本来の名前で云えば「阿米(アマイ)」である。古事記神話の「天之御中主神」は姫氏系図 第九代の王、「阿米」である。姫氏九代の王、「阿米(天之御中主神)」は最先端の文明と武器を持つ最強 の弥生国家、「委奴國(吉野ヶ里)」の王であった。吉野ヶ里遺跡は要塞ともいえる構えをしている。「委奴 國」は、まさに、軍事国家であった。
(中略)時代は弥生国家と縄文国家との戦国時代である。
だが、実際は彼は「委奴國」の多くの将兵とともに彦島に現れたのであ る。 私たちは、彦島「高天原」に現れた始原の神「天之御中主神」のイメ-ジを一新しなければならない。
この神は通常の意味の宗教的な神ではない。神とは守。神とは国主。神とは輝く銅剣を佩き、「かみ」と畏敬さ れた最強の軍事国家「委奴國」の絶対君主、「阿米」だった。
記紀神話「天之御中主神」と姫氏系図「阿米」が始原で結び付く。「天(アマ)」は、「阿米(アマイ)」の訛だ と理解すれば、「天」とは地名ではなく、國王の名前だったのである。「天國(アマクニ)」とは、「阿米の國」と いう国主を表示した国号である。
●新たなる軍勢の王「国常立尊」
(中略)初め、「阿米」とその軍勢が現れた。そして、彦島に「阿米(天)國)」を作って去って行った。その國が「高天 原(彦島老の山)」である。
次に、「天つ神(阿米一族)」ではない、「國之常立神」が現れた。
この時、委奴 國では王が「阿米」から、「國」に変わっていたと思われる。そして、新しく國王となった「國之常立神」も、ま た彦島に来た。彼もまた「阿米」と同じように新しい弥生集落を作った。それが、後年、倭健(ヤマトタケル) が遠征した古代の「常陸國」である。
「常陸國」はこの「國之常立神」が建国した小倉南区の古代國であっ た。「常立(トコタチ)」が「常陸(ヒタチ)」と訛ったのである。
次が「豐雲上野神」である。この神の名前は「豊」である。この神の子孫が「伊豫二名嶋」の女王「豊」であろ う。女王は、「豊」、または、「伊豫」と呼ばれた。故に、彼女の國は「伊豫二名嶋」と呼ばれたのである。
●ヤマトとは。
記紀は神武の國を「倭國」と書いている。だが、神武は自国を「キコク」、または、「ワコク」と呼ばず、「ヤマトの國」と呼んでいる。何故、「ヤマト」と呼んだのであろうか。神武のル-ツは「天(あま)」である。「天(あま)」は、彦島老町に存在した「高天原」を中心とする連合国家であった。天王朝の弥生国家の実態は「大八
洲」と云われた八つの嶋の湊の作られていた弥生集落である。その集落は、「ミナト」と呼ばれていた。「水門」「湖」「湊」などは、湊に形成された弥生集落を表す。「ミナト」とは「水の戸」という意味であろう。つまり、海辺に存在する集落、港町の意である。一方、神武が建国したのは田川盆地である。海とは遠く隔たる山の中である。よって、「海辺の集落(ミナト)」と区別して、「山の戸(ヤマト)」と呼んだのではないか。これが「ヤマト」の本来の意味と思われる。「倭國」という國名は「王である忌(倭)が支配する國」という明確な主張を持つ国号である。だが、「ヤマト」にはそのような国権の主張はない。従って、「ヤマト」は国号と謂えるものではなく、内陸部の弥生集落の形態を表現したものにすぎないであろう。
http://koji-mhr.sakura.ne.jp/PDF-2/2-4-1.pdf
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国常立尊は、アメノミナカヌシとは別勢力です。対立して争っていたかはわかりませんが、国常立尊は出雲族になります。
一方で、天之御中主はどうだったのでしょうか。
天之御中主は「北極星」にも例えられたそうですが、「北極星」は「道祖神」でもあります。まんま妙見信仰なのですね。ただし、妙見信仰とは後年になってから習合されたものらしいので、妙見信仰のはじまりとは関係ないようです。いずれにしろ出雲族です。
しかし、天之御中主は9代目の呉を出自にもつ「姫氏」の王でしたが、卑弥呼は天之御中(阿米)の一族なのだそうです。卑弥呼は大和族。では大和族?
と、このようにはっきりと天之御中が大和族か出雲族か分かりません。
しかし引用した文にもあるように、ヤマトは山の集落の意味だったかもしれません。
ですが、大和と出雲の争いは史実。
秦王国が統合国だとして、統合国の名の元に争う両者の祖はど同じ「姫氏」だった。
これが意味することは何なのか…。
まとめ
以上、日本列島および朝鮮半島の古代王朝について述べてきました。
さらに歴史の全体像を知りたい方はこちらの記事がおすすめです。
関ヶ原の戦いより千年前に起きた天下分け目の戦いの真相。またはカタカムナと安倍晋三の深いつながり。
次回はユダヤ人について、さらにまとめていきます。
旧約聖書と日本神話の類似、そしてヘブライ語と日本語の類似、これが意味しているのは日本を統べる王にユダヤ人がいたということです。
ということで!次回に続きます。