倭人の正体とは?倭人と姫氏と東夷とユダヤ人のつながり。【古代シュメール国家の行方④】

はじめに、ざっと概要を説明します。 

「倭人」とは狭義として、古代の日本列島における日本人のことです。

まあ、ふつうに生活していて倭人に興味が湧く人なんていないと思いますが、倭人が実はユーラシア大陸を横断して、広く活動していた航海人だったとすれば、ちょっとは興味が湧いてくるのではないでしょうか?

そんな倭人の歴史はとても壮大なものでした。

ノアの方舟の大洪水が起こったあと、東南アジアのスンダ大陸(ムー大陸の一部だった?)周辺にいたであろう縄文人らしき人々はメソポタミアに入り、そこからまたUターンして日本大陸に戻ってきて、倭人となったのかもしれないのです。

いったい、倭人とはどんな人々だったか。おそらくは、ただの原始人とは程遠い、商売上手の悪魔崇拝者だったと思われます。

とりあえず、「倭人」を調べるうちに分かってきたことは「姫氏」「東夷」「李氏」のこの3つが密接に関わっているということです。

調べるうえで重要だったのは、言葉を発するときの「音」にありました。古代の倭人は「音」を重要視していました。というのも古代人は「言霊」を強く意識していたようで、言葉は神霊的な力を持つと考えられていたためです。

たとえば「姫」と「倭」は同じく「イ」と読み、米や魚を好む「イ族」でもあるのでした。「イ」は「夷」でもあり、「東夷」とは「東のイ族」という意味だったのかもしれません。また、今では蔑む意味の「夷」ですが、もともとは尊敬する意味が込められていました。彼らが魚も食べるのだとすれば、海辺に住む「海神族」であり、広く海を渡るための航海技術にも優れていた部族だったのではないかと推察できます。

つまり、これらの事実だけでも姫氏=倭人=イ族=東夷ではないかと考えられるわけです。

「姫(イ)」=「倭(イ)」は音が同じだけですが、それだけではなく、人物の名前に自分のルーツの意味を含ませたり、祭祀的な意味を含ませたりもしていました。

漢字の意味を調べると、その多くが祭祀的な意味を孕んでいることが分かります。漢字は、中国中原の王朝だった「殷」がルーツですが、「言霊」を重要視する「カタカムナ」や、「カタカムナ文献」を持っていたとするバイカル湖周辺にいた「チュルク族(出雲族)」も連想できますね。

ということで、今回はその「倭人」について堀りさげていきたいわけですが、「倭人」は自ら「呉の太伯の末裔」だと表明していたようでした。これは有名な話です。

「呉」の祖は「姫氏」であり、けっきょく倭人は姫氏につながりますが、それだけでは終わりません。

前回の記事では「東海姫氏」が日本列島を含め、東南アジアまで広く分布していた説があると紹介しましたが、この「東海姫氏」は「ユダヤ人」や「シュメール人」とも深く関係している可能性があると分かってきました。

そして「姫氏」のそばにはいつも「李」がいた…。

この「李」という漢字は、「姫氏(キシ)」で「李(木+子=キシ)」とも解釈できてしまいます。そして「李氏」は明代に「レビ 」にあたえられた姓でもありました。

また、五芒星や六芒星はイルミナティーたちがよく使うシンボルではありますが、こういったシンボルもまた、彼ら李氏・秦氏・出雲族を表しているものでした。

五芒星といえば秦氏で、六芒星といえば出雲族、五芒星+六芒星で、八芒星です。

■五芒星 = 安倍晴明 = 秦氏 = 陸軍 = 火 = 鶴 = ミトラ(ミトラ教) = JAL = トヨタ……etc
■六芒星 = 芦屋道満 = 出雲族 = 海軍 = 水 = 亀 = ヴァルナ(ゾロアスター教)= イスラエル = 大本教……etc

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■五芒星 = 秦氏
■六芒星 = 出雲族
■八芒星 = 秦氏+出雲族 = 国常立尊
 
「ムー大陸」の王家は「八芒星」を自らの紋章として使っていたらしいので、ムー大陸でも「国常立尊」が拝まれていたということになりますね。

カタカムナこそルシファー信仰の源流である。

やはり、宇佐「八」幡宮なども考慮すると「秦王国(東表国)」は「秦氏(大和)=五芒星」と「出雲=六芒星」の統合国だったとしか思えません。

織田信長・豊臣秀吉・徳川家康などの戦国武将が「八の者」と呼ばれていたことも、これらと関係しているに違いないのです。

倭人の正体…、それは現天皇一族のルーツでもありました。

倭人の正体

倭人の正体=東夷。

中国では現在、「黄帝」の実在性を探る研究がされているようです。

黄帝とは、三皇を継ぎ、中国を統治した五帝のひとりです。書物によっては三皇にもされています。そして、古代の中国王朝の始祖などは皆この「黄帝」の子孫であるとのこと。

の始祖を初め数多くの諸侯が黄帝の子孫であるとされる。

出典:wikipedia

しかも黄帝の姓は「姫」で「姫氏」でした。

中国的には「黄帝」vs「炎帝」で、「黄帝」の子孫は漢民族となり、「炎帝」の子孫が倭人となったと考えているのだそうです。

しかし、実際は「炎帝」と「黄帝」のもとで、長らく中国大陸・日本列島は支配されていたのでした。

以下のサイトを読めば日本人がどれだけ嘘の歴史を教えられているのか分かるはずです。

 以下転載ですが、長いので画像等の補足もいれて転載いたします。

炎帝神農氏は日本人だった⁉️ 東夷に支配され続ける漢民族の歴史~中国の史書から見た倭人②

炎帝→呉越→弥生人

中華()民族の祖は黄帝とされています。

近年、中国では黄帝の実在性を探る研究が進んでいます。

黄帝は、それ以前に中原(黄河中流域)を治めていた炎帝神農氏に勝利して中原を制するのですが、近年の研究では、

黄帝=黄河文明(雑穀畑作民)

炎帝=長江文明(稲作漁労民)

の戦いと考えられています。

註:一般的には「黄帝」の前の皇帝が「炎帝」であり、先に中国を支配していたのは「炎帝」でした。

さて、ここから先が面白いのですが

今、中国の研究者がどう考えているかというと

勝った黄帝の子孫が漢民族となり、敗れた炎帝の子孫が日本の天皇になった⁉️今ココ‼️

…なのだそうです!Σ(😉

本気でそう考えているらしいですよ( ・´)

長江文明の方が優れていたにもかかわらず中国からは、その文明の痕跡は跡形もなく消え去りました

然し、長江下流にあった呉越の習俗と倭人の習俗は似ています。現在、中国で炎帝の子孫を称するミャオ族の習俗も、倭人にそっくりです。

炎帝の本拠地は岐山(のちに周王朝の起源ともなった)であり、ここには隋の時代に岐階県が置かれていました。

岐階郷は、平安時代の天竜区(山香郡)にあった郷名ですね。

岐=クナト神であり、岐神(二俣神)は出雲の最高神とも云われています。

註:岐山県の東北部に「箭括嶺」という山があります。この山は峰が2つあって向かい合っており、山頂が2つに分岐していることから「岐山」の名前がつきました。

註:長江下に、李家山遺跡があります。ここには「滇王国」の遺跡があり、李家山遺跡からは「漢倭奴国王印」と同じ蛇がデザインされた金印が発見されました。同じ蛇がデザインされた金印は、この2つの他はありません。また、「滇王国」は卑弥呼の邪馬台国と同じように「女王国」だったといいます。ダブルスパイラルの遺跡も双方から見つかっており、これは両国が同族の国だったことを意味しているのではないでしょうか?滇王国と邪馬台国は同族

註:長江下流に、「呉人」と「越人」がいました(紀元前800年〜前500年の春秋時代)。彼らが住み着いていた上の方には淮河がありますが、弥生人は淮河・長江周辺からやってきたとされています。つまり、呉人・越人とは長江文明の稲作文明をもたらした弥生人の一種でした。春愁時代(紀元前八世紀〜前五世紀)の長江、淮河流域の江蘇省で出土した約五十体の人骨と、福岡県筑紫野市から見つかった弥生人二体の骨からミトコンドリア遺伝子を抽出し、その塩基配列を調べたところ、(中略)それぞれ、配列において完璧に一致し、共通の先祖をもつことが判明した。つまり渡来人は長江、淮河流域からやってきたことが明らかになったのである。出典:テーマ別で読むと驚くほどよくわかる日本史・河合敦(P21

註:「越人」も「呉人」も、どちらも「百越人」と呼ばれる。

古代中国王朝は「東夷=縄文人」に治められていた。

(中略)中国の正史である『新唐書』『宋史』では、神武朝(周の僖王の時に中る)の先代である彦ナギサ尊(ウガヤフキアエズ朝)はおろか、初主天御中主からの万世一系を認めています。

註:前回もお伝えした通り、ウガヤフキアエズ王朝の25代目ウガヤは「秦王国」の秦国主となった可能性がある人物でした。ウガヤ=神武天皇説も見受けられますが、ウガヤは神武天皇の父という話や、ウガヤと神武は異母兄弟だったという話もあります。相島には高妻神社と若宮神社があり、山幸彦と海幸彦の話しと、豊玉姫が山幸彦と結婚し葺不合尊が生まれ、育ての親の玉依姫と結婚して神武天皇が誕生する話しがある。すなわち、妻の玉依姫、母の豊玉姫は安曇氏の出である。引用元:ひろもぎ逍遥

中国では、黄帝からの五帝の統治に続いて、夏・殷・周の上古三代の王朝が興亡しますが、

長江文明(Y染色体ハプロタイプO1a,O1b1)との関係が強く指摘されています。

史書では、夏の先祖を「東夷」としています。

夏の後裔は「越」です。

続く()遼河文明(Y染色体ハプロタイプN,C2,O2a2)との関係が強く指摘されています。

(遼河文明と青森県三内丸山遺跡の関係も指摘されていますが青森県には現在もハプロNが多い)

(姓は子)は周に滅ぼされたあと、一族の箕子は朝鮮に移ります。

三國志東夷伝では、遼河地域、満州、朝鮮半島、日本列島にまたがる地域の民族をまとめて「東夷」としています。

そして、東夷の中でも「倭人」を三國志の著者陳儔は、そこはかとなく盟主的存在に描いています。

三國志東夷伝の諸民族(アルタイ諸語系夫余語族)は、多少の相違はありながらも殷の後裔であると結論づけるように記されています。

は前述のように元は炎帝と関連した民族であり、これに匈奴(Y染色体ハプロタイプQか?)や西戎(ハプロR)が合体した部族であり、姓は姫

中国はかつて、日本を東海姫氏国と呼んでいました。

倭人が呉(周の一族で姫姓とされる)の太白の末裔を名乗っていたとも

古来の日本では、高貴な身分の女子に○○姫や、○○子と名付けていましたが、

(姫姓)や殷(子姓)の王女が他国へ嫁ぐと姫、子と呼ばれていたこと(つまり、古代中国の高貴な身分の女性には姫、子が多いのですが、本来の姫、子が女性を意味するわけではない)に由来するのだと思われます。

周建国後、殷の一族は宋に、夏の一族は杞(「杞憂」で知られる杞国の人は、隆盛を極めた夏王朝すら滅ぶのだから、次はどんな不幸が起こるだろうかと常に心配していた)に封じられますが、実は故地(長江下流域、遼河以東)に戻り、それぞれ越、箕子朝鮮として存続していたのでしょう。

中国の史書は、そうしたロジックで書かれることが多く、大元ウルス(元朝)は、中国から撤退後も、故地モンゴルに遷都しただけでそのまま存続していましたが、史書では明が元を滅ぼしたことにしています。

殷は商とも呼ばれますが、商人の語源であり、その民族は行商つまり交易民であったと考えられます。

夏人の末裔である越人もまた、ベトナム(越南)から北陸(越前~越後)まで広範囲に交易する海洋民でした。

夏も殷も「東夷」系の交易民が母体であったことがわかります。

中国の史書には、婉曲ではあるものの、読めばそうとわかるように書いてあります。

箕子朝鮮と越の主要な交易相手は、倭人であったのでしょう。

そして、倭人を含む「東夷」の正体とは「縄文人」だったのです。

註:弥生人とは寒冷地適応した縄文人ということで、もとをたどれば結局は縄文人です。言語的にも、原日本語は列島ふくめ中国大陸で広く話されていたことからもそれは明らかです。

(中略)三国を統一した晋は、ほどなく匈奴、鮮卑などの騎馬民族(五胡)に蹂躙され、長江南部に追われました。

五胡の中心となった鮮卑は、東胡の末裔とされますが、限りなく「東夷」に近い部族です。

北魏、隋、唐は鮮卑族(ハプロN,O2a2,C2)

五代~宋は突厥(テュルク系で匈奴の別種とも云われ、シルクロード交易で栄えた)沙陀族。

実質的に宋を従属させた遼(契丹)は、その国号が示すように遼河文明系で、東部鮮卑の後裔。

宋を黄河流域から追い出し、またしても漢民族を南下させた(女真)は、やはり東夷の満州族

元を興し宋を滅ぼした蒙古(モンゴル)族も、東胡、鮮卑、契丹の流れを汲む民族

漢民族としては、何度も同じ相手にやられるのは不名誉なので、度々呼び方を変えていますが、東胡、鮮卑、契丹、蒙古、韃靼は、ほぼ同じ民族と考えて良いでしょう。

明王朝。

続く明は、漢代以来の漢民族王朝とされますが南方の人で、残念ながら長江系ですね(*´ω・`)b

豊臣秀吉は、日本の天皇を中華皇帝に返り咲かせようとして、東夷の同胞である李氏朝鮮に同盟を持ちかけますが、朝鮮は従わず、明と共に日本軍に対抗します。

明史日本伝にハッキリと書かれていますが

「関白(秀吉)が東国を侵してから前後七年に、(中国と朝鮮の)失った師(師団の員)は数十万()、費やした兵糧は数百万()におよんだが、中朝(明の朝廷)と朝鮮には最後まで勝算はなかった。たまたま関白が死するに至り、ようやく兵禍は休まったのである」

明は秀吉に全く勝てる気がしなかったのですね…(´д・`)

矢折れ力尽きた明は、やがて国力を回復させる間もなく、またしても東夷である満州族の清に征服され滅びました。

明末の英雄として台湾に渡り清に抵抗した鄭成功は、日本の平戸で生まれ、母は日本人の田川マツ。

中華思想とは、もともと契丹や金に従属を余儀なくされた「突厥沙佗族の王朝」である宋の時代に、漢民族のナショナリズムから興ったものであり、常に東夷に支配される漢民族の悲哀とコンプレックスから生まれました。

黒曜石の強力な矢尻を用いて、弓を操る大人(文明的な人々)と考えられて尊敬していた「夷」人(中国の聖なる五帝の一人、帝舜は東夷であり、夷はもともと蔑称ではなく尊称)を貶めるようになったのは司馬氏(出自はおそらく長江系)の東晋が東夷系の鮮卑に圧迫されて南下していた六朝時代であり、当時もまた強烈なコンプレックスに悩まされた時代。

続く鮮卑族の隋・唐の時代には「夷華同一」思想が生まれ、隋は倭国王を「日出づる処の天子」と認め、唐()は高宗天皇帝が使用した天皇号を日本の天皇が使用することを認めました。

宋を実質的に支配下に置いていた契丹に至っては、日本に朝貢していた渤海国を滅ぼすと、引き続き日本への朝貢を行おうとさえしています(日本側がこれを蹴った)

中国では易姓革命、つまり王朝の徳が衰えれば、徳のある(別姓の)新しい天子に王統が移る、というシステムを採用していましたが、何のことはなく、代わる代わる東夷がやってきて漢民族は支配され続けてきたのです。

中国では王朝が代わるたびに前政権の関係者が皆殺しにされ、文化も断絶するなどと妄言を吐くネトウヨがいますが、戦乱期を除いてそんなことは滅多にありません。

政権をたらい回しにする東夷諸族は、面倒なことはせず、前政権の官僚機構をそのまま引き継ぎ、優秀な漢民族の官僚を濃き使うのです。

五代などは王朝が次々代わっても、ずっと同じ人が宰相をやっていたくらいです。

最後の最後にやっと漢民族(汝南袁氏、袁紹の末裔と称する)の袁世凱が中華皇帝となりましたが、漢民族はこれを支持せず、袁氏は退位を余儀なくされ失意のうちに亡くなりました。

明の末期に人々が悪口を言うとき、「この倭人めが」と悪態をついたそうで、「倭人」は相手を貶める言葉として使われたようです(明史日本伝)

明では倭人と通じることを厳しく禁じましたが、最後まで明復興を掲げて清に抵抗した鄭成功に日本人の血が流れていたのは皮肉なことでした。

明の遺臣の朱舜水らは、日本に亡命し、

「夷狄である満州族の清朝が治める中国はもはや中国ではなく、日本こそが中華である」と述べ、この思想がのちに

神州(中華正統王朝である日本)不滅の思想に発展していきます。

中国とは。

(中略)東の聖なる国を崇敬する伝承は、道教の中心地であった山東半島、淮南などに唐の頃まで色濃く残っています。

そこは倭人が交易に訪れていた地域です。

楚君熊渠曰:「我蠻夷也,不與中國之號諡.」

春秋時代の楚は、長江中流稲作民の国でしたが、中国ではない(外国だ)から、周の爵位に従う必要はないと王を称していました。

中国というのは、中華人民共和国の略称ではあるはずもなく、春秋時代から使われていた、自国を指す周王朝以来中華王朝の自称であり、中つ国を意味します。

日本も自国を指して「中国」と呼んでいた記録もあります。

楚は、中国ではないと言っていますので、雑穀畑作民と稲作漁労民は、全く別の国であったことがわかります。

周王朝は、北方に去った殷に対する備えとして、北京のあたりに成王の弟を「韓」候に封じました。

韓は強大になり、東夷に睨みを利かせていましたが、韓が更に力をつけることを恐れたためか、韓候は山西省に転封され、春秋時代初期に晋に滅ぼされ、のち戦国時代に韓武子が再興しています。

北京には韓に代わって燕が転封されましたが、韓の住民は多くが河北、朝鮮半島に散らばり、朝鮮半島南部の「韓」のルーツになったと云われています。

当時、朝鮮半島南部は倭人が交易の拠点とし、山東、淮南、江南との中継基地にしていたようです。

燕とも交易していたので、中国の史書には「倭は燕に属す」と書かれています。

中国沿岸部では、楚と同様に越と呉も王を称しており、越は山東半島からベトナム付近まで港湾都市を点々と拠点にしていたようです。

中国では、こうした東夷諸国のはっきりした所在地は掴めていなかったと思われます。

(中略)秦の始皇帝の焚書を経て、漢代に雑穀畑作民の視点でまとめられた楚・呉・越の歴史には多分に憶測が交じっています。

そうした誤りを正そうとしたのが、陳儔の三國志東夷伝ですが、周を中心とした華北の中国に対して、倭人を中心に、日本列島、沿海州、朝鮮半島、華南から東南アジアにまたがる強大な帝国の全貌は、最後まで明らかにされることはありませんでした。

然し、DNAによる情報や、新たな古代遺跡の発見により、21世紀の今、いよいよ明らかになろうとしています。

東夷とは、日本列島から出て大陸に散らばった縄文人と、その文明の恩恵を受け同化していった大陸民の末裔であり、その中枢は日本列島の倭人である…陳儔の時代、晋の知識人は、朧気ながらそう認識していたようです…

韓国民と日本国民だけが知らないんだけどね!Σ(😉

ちょっと長くなってしまいましたが、中国の歴史と日本の歴史の中枢にいたのが「東夷」であること、さらにその王が現在の「天皇家」につながっていることが分かっていただけたかと思います。

そして紛れもなく、平成のぬらりひょんこと安倍晋三も「東夷」です。

(元ネタはこちら

というのも、引用文の中で「女真」が出てきましたが、これは「女真族」のことで「満州族」です。「李氏朝鮮」の始祖である「李成桂」は「女真族」であり、女真族もまた「東夷」であり、安倍晋三は「李成桂」の子孫にあたる人物だからです。

くわしくはこちら

つまり、日本を牛耳っている上級国民の血筋は、古代からまっっったく変わっていないのです。

中間まとめ

まとめるとこうです。

倭人の祖は、炎帝(牛であり出雲族):炎帝が拠点においたのは「岐山」で、そこは「周王朝」の拠点にもなった場所であった。「周王朝」の民族は炎帝に関連し、王朝は「匈奴」とも合体してできたものだった。岐は「クナト大神=出雲の祖」を意味し、炎帝自身も牛身だったことから、出雲族であった。倭人は「呉の太伯」の末裔だったが、「呉」は「周」の一族であった。弥生人は呉・越の人々で姫氏であった。(以前からも列島で出雲王朝を建てていた)

中原(中国)は古代から、東夷一族によって治められていた:漢民族とはおおよそ幻想で、東夷(炎帝)によって長年治められていた事実を忌むべきこととし、それら東夷諸国を蔑んだ。実際は、東夷の夷とは尊敬する意味が込められていた。“漢民族は黄帝の子孫”だと主張するのは、そういった意味もあると考えられる。古代の王朝「夏・殷・周」はみな、東夷によって建国された王朝であった。「夏」は滅ぼされたのち越族となり、「殷」は遼河文明であったため箕子朝鮮として存続した。五胡も宋も明も、広義で東夷だった。

古代日本において「クナト大神」という東夷一族によって出雲王朝が建てられていただろうこと、その後やってきた弥生人も呉・越人であり結局は姫氏で東夷だったこと、周を滅ぼした秦の「秦氏」は出雲族と合体(?)し筑紫に「秦王国」を建てたこと、しかしその中でまた大和族と出雲族にわかれて争いあったこと、すべて辻褄が合うといえるのではないでしょうか。

いちばんはじめに「黄炎結盟」の絵を紹介しましたが、ということはつまり、はじめから「黄帝(秦氏)」と「炎帝(出雲族)」は同じ穴のムジナだったのです。

すなわち「黄帝vs炎帝」なんてのはなく、古代より中国大陸および日本列島はほとんど一貫して、「八芒星」を主なシンボルとする「出雲族(炎帝)+秦氏(黄帝)」によって治められていたのではないでしょうか。ただ、そのなかでも争いが絶えないこともまた事実であり、上の上は繋がっていても、下は争い合っていたのだと思います。

世界はアーリア人(秦氏)とチュルク族(月派・出雲)の抗争の上に成り立っている。

一時期、安倍晋三は「」をシンボルカラーにしていましたが、「」は青と黄色を混ぜた色です。

安倍晋三・稲田朋美をはじめ緑の勢力が「第三次世界大戦」を引き起こそうとしている厳然たる事実。

緑龍会」なんてのもありますね。こちらはナチスと関わっていた組織で、戦前の京都に存在した秘密結社でした。日独を裏で結びつけたり、その内の何人かはナチス設立に関与したりと、実に怪しげな組織です。

ナチスドイツが戦争に負けた真のカラクリ。またはヒトラーを操った「緑龍会」について。

こちらも天皇一派に違いありません。イルミナティー はシンボル使いがお好きなようです。

姫氏と東夷に紛れたユダヤ人。

キーワードは「ひょうたん」。
楚・呉=ミャオ族王朝?

「ミャオ族」は、とても日本人に似ている部族です。

註:画像はこちらから引用

この民族衣装は、着物にとても似ていますね。

ミャオ族は炎帝を祖に持つ部族であり、さらに正確にいうと炎帝神農の子孫である「蚩尤(しゆう)」なのだそうです。

蚩尤(しゆう、拼音: Chīyóu)は中国神話に登場する神である。『路史』では姓は炎帝神農氏の子孫であるとされる。獣身で銅の頭に鉄の額を持つという。また四目六臂で人の身体にの頭との蹄を持つとか、頭に角があるなどといわれる。

◀︎蚩尤。後漢代の山東省の墓壁画

出典:Wikipedia

ミャオ族は今でこそ少数民族ですが、かつては王朝を建国するほどの力を持った部族だったかもしれません。

ミャオ族が楚や呉といった王朝を建国したかどうかは謎です。ですが、ミャオ族と楚・呉、倭人との共通点はたくさんあります。たとえば衣装ですが、写真のようなものもそうだし、十二単などもルーツはミャオ族だったと考えられます。

また、ミャオ族には「ひょうたん」にまつわる逸話が伝承されているそうです。※基本的にミャオ族は「口頭伝承」らしく、文字は使用しません。これはドルイドも連想させますね。

この「ひょうたん」というキーワードで、呉や倭人、新羅にも繋がっていくようです。

「呉」と「孤竹国」の建国秘話が似ている。

これが呉の建国であり、前585年の時である。最初は国号を句呉とした。

この建国説話は儒学で聖人と謳われる伯夷と叔斉の話を思い出させる。

孤竹国の王子であった長男の伯夷は父王の遺言により末弟の叔斉に王位を譲ろうと出国する。しかし長子が継ぐべきであると、叔斉も兄を追って出国する。空位になった王位には二男が就いた。二人の兄弟は聖王の誉れ高い周の文王を慕って訪れるがすでに死去していた。呉初代季歴の父の古公亶父は文王の祖父である。孤竹国は前1100年~前378年に現河北省唐川市辺りにあったとされる。斉によって滅ぼされている。

この説話は呉の建国説話にとてもよく似ている。更に『記・紀』における、弘計(をけ)と億計(おけ)の兄弟の話にも援用されている。後の顕宗天皇、仁賢天皇である。

孤竹の「竹」は陳舜臣氏によれば、民族という意味であり、そうであれば「孤」の民族の国ということになる。ではこの「孤」は何であろうか。

苗(みゃお)族に伝わる伝承に、洪水の時、瓠瓜 (ひょうたん)の中に入って難を逃れたという話がある。「孤」と「瓠」も篇が違うだけで読み方は同じである。「孤竹国」とは「ひょうたん民族の国」と言い換えられるかもしれない。

そしてその一字を含む、瓠公(ここう)と言えば、新羅始祖伝承に登場する重要人物である。腰に瓠をぶら下げて、海から渡ってきた倭人とされる人物である。

新羅には三氏のそれぞれの始祖説話があり、朴氏と金氏には共通して倭人の瓠公が重臣として現れる。昔氏はその始祖の脱解自体が日本で生まれて、新羅に流れ着いたという伝承を持っている。朴氏の命名譚は瓠のように大きな卵から生まれたので、瓠の意味の朴を名乗ったということである。

苗族は呉や楚の王朝を形成した民族であるかどうかは定かではないが、居住地が重なっていて、接触があったことは確かであろう。

孤竹国と呉との間には、特異な王位継承についての類似がある。さらに苗族の洪水伝説から派生される、「溺れる」と言う表現をひとつのモチーフとすれば、隼人の祖の海幸が山幸の操つる塩盈珠と塩乾珠によって溺れ苦しんだことも同様のモチーフである。さらに瓢箪に乗って洪水の難を逃れた、という説話は、シュメールからイスラエルに伝わった、所謂「ノアの箱舟伝承」を想起させるものである。

また、ひょうたんは二つの球体の連結したものであるともいえるので、塩盈珠と塩乾珠の二面性の表現であるともいえる。新羅の始祖説話も瓠で繋がっている。

さらに最初の国名は句呉であり、この句という字に、蔑称的に獣偏を付ければ「狗」という字になり、やはり狗奴国、狗邪韓国さらに隼人との関連を匂わせるのである。

https://ohmononush.exblog.jp/17774928/

塩盈珠(しおみつたま)・鹽乾珠(しほふるたま)とは、「海幸彦」と「山幸彦」のものがたりに登場する不思議な道具なのだそうです。「山幸彦」と「海幸彦」は兄弟でした。

引用文では、この珠が“二面性”をあらわしているとのことですが、これは陰陽を意味しているのでしょうか。

たとえば、「太極図」は陰陽思想の基本ですが、古代から中国のシンボルにされている「鳳凰」は雄雌の和合を表しています。また、中国の伝統的な縁起物のデザインとして「双魚紋」があり、これは古代インドやギリシャの魚座にも繋がるものですが、子孫繁栄の象徴とされています。

仏教において「双魚紋」は、八吉祥のひとつとして尊ばれているようで、釈迦像の足裏にもこの紋様が刻まれているのだそうです。仏教といっても、チベットの仏教圏で用いられるもののようです。

太極図は「陰陽魚」とも呼ばれます。このことからも「魚」の概念が根幹にあるようです。「魚」を食べるのは「イ族」でしたが、やはり「東夷」や「海人族」が関係してくるようです。で、「東夷」はおそらく「姫氏(キシ)」でした。

ちなみに、「楚・呉」や、孔子の出身国であった「魯」は同じ年代に存在する国でした。

道教の祖である「老子」がいた年代は定かではありませんが、「孔子」と通じていたとする説もあります。とりあえず紀元前600〜前400年ころの人物だと考えられています。

その「老子」の姓は「李」でした。そして「李氏」の多くが彼の末裔を称しているのだそうです。(参照:Wikipedia)ここでも「キシ(木+子)」がみられますね。

また、「孔子」は「ユダヤ人」だったかもしれません。

孔子のみならず、「諸子百家」がみなユダヤ人だったとする記事がありました。(参照リンクはこちら

それによると「東夷」は律法を共有しており、宗教的儀式を行なっていたのだそう。

まず後漢書東夷伝によると、東夷の風習は「酒を飲み、歌舞することが好きで、ときにはかんむりを冠り、錦の衣を着る」とあり、さらに「器具には、俎豆を使用する」と繰り返し記載されていることに注目です。「俎」は、生贄の肉を乗せるまな板であり、豆は菜を盛る高月(たかつき)のことです。この2つの文字を合わせると、祭祀の供を盛る器の意味となります。つまり東夷では、祭壇とお供えを伴う儀式を執り行い、燔祭を伴う宗教的儀式を営んでいたことがわかります。

次に、「政治のゆきわたったところでは、道義が行われる」だけでなく、「法は7800年も続き、それゆえ東夷は一般に穏やかに行動し、心に慎むことを慣習としている」と記載されていることにも注目です。これらの記述からは、東夷の民が先祖代々、律法を共有していたことがわかります。

(中略)また、隋書列伝には、東夷は「衣服については一般の服装と礼服とが兼ね備わり」、「儒教の経典を学ぶことが好きで、文学や史書を愛読する」、そして「先哲の遺風がなければ、どうして能くこのような(良い風習に)なることができようか」、と書かれています。この特徴こそ、まさにイスラエル民族の天性といえる勉学や宗教に対する熱意と姿勢の表れではないでしょうか。そのイスラエルのルーツを自ら悟り、東夷をこよなく敬愛したのが孔子です。このように東夷は博学であるだけでなく、宗教的儀式にも長け、そして規律正しい人種だったことがわかります。

東夷が規律正しい民族であったかのように書かれています。

ですが、彼らは残念ながら完全なる悪魔崇拝者でした。

事実、律法のようなものを一部では守っていたのかもしれません。しかし、孔子は「人肉」を食べていたとも言われているのです。

調べるとすぐ出てきますが、デマだと否定する人も少なくありません。解釈の仕方が難しいようです。

とはいえ、中国に人肉食の文化が根づいていたことは確かです。中国人が自ら人を食べていた文化があると認めているというのに、孔子だけは例外だなんてことは無いと思われます。

実際は、ユダヤ教徒にまぎれた悪魔崇拝者だったのでしょう。ユダヤ教を悪用したのかもしれません。

タルムードというユダヤ教の教典がありますが、これこそ、ユダヤ教が悪用された代表例です。以下、こちらからの引用になります。

この「タルムード」はユダヤ教の教えをまとめたもので、ユダヤ教のきちんとした正典であると仰る方も一部にはいるようです。
 
もちろん、私はそんなことは信じませんし、実際、私はこれまで何度も聖書を読んできましたので、聖書の内容とタルムードの内容がどれだけ違うかも知っています。それは全くもって似て非なるものです。
 
これと同じく、現在のキリスト教の教義も、聖書に書かれてあることとは全くかけ離れたものばかりが出回っています。悪魔崇拝者たちがキリスト教の教義をすべて骨抜きにし、その解釈をねじ曲げて、誤った教義を世界中の人々に教えてきたのです。
 
で、悪魔崇拝者たちはその信者たちを利用して、自分たちのやりたいことをやりたいようにやってきたわけです。こうして世界中のカルトは誕生しました。

このように、ユダヤ人には数多くの悪魔崇拝者が紛れ込んでおり、聖書の教えをねじ曲げようとしているのです。

旧約聖書のリンゴは「まるめろ」だった?

話はまた「ひょうたん」に戻ります。

「ひょうたん」に似ているものに「まるめろ(カリン)」があります。似ているといっても、まるめろの上のボコっとした凹凸ぐらいで、ひょうたんはウリ科で、マルメロはバラ科ですが。

「ひょうたん」の原産地はアフリカとされ、縄文時代にはもう「ひょうたん」があったのだそうですが、いっぽうで「まるめろ」の原産地はコーカサス地方、あるいはメソポタミア地方とされています。

まるめろは紀元前5000年にはすでに栽培がはじまっていたのだそうです。

とても歴史のある食べ物なのですが、硬くてパサパサしており、味は渋味・酸味が強く、食べにくいらしい。ジャムにすると美味しいようです。

そんな「まるめろ」は、旧約聖書の禁断の果実だったと考えられているそうです。

マルメロの栽培はチグリス・ユーフラテス河に挟まれたメソポタミア地方(現,イラク北部)あるいはコーカサス地方において BC 5000年から BC 3000年ごろに始まったと考えられており,マルメロの木は BC 2000年までに古代バビロニアで知られるようになっていたという。おそらく,旧約聖書の記述に出てくる「金のリンゴ」はマルメロを指したものであろうと考えられている(Brunn, 1963)。

引用元:西洋文化とマルメロ(マルメロの歴史)

東夷とユダヤ人の繋がりや、ひょうたんに纏わる逸話と禁断の果実であるまるめろ…。これらの驚くべき繋がりをみれば、決して偶然ではないことが分かるのではないでしょうか。

悪魔崇拝者たちは、アダムとイブを堕落させた禁断の果実を象徴とし、なにがなんでも神の掟とは真逆のことをして、嘲っているのかもしれません。

伯耆国(ほうきこく)

また、日本列島における古代出雲国のとなりには「伯耆国」があったそうです。

この「伯耆国」もまた、「ひょうたん」と関係した国でした。

シュメール起源の「ハル」と「キ」の二神を伯耆(ほぅき)と日本では言っていた。実は、伯耆(ほぅき)国と言えば、今の鳥取県の西部の旧称である。また、伯州とも言っていた。イザナミノミコトが亡くなられて、出雲国と伯耆国との境にある比婆(ひば)の山に葬(はぶ)られたことが古事記に書かれている。

古代出雲国のとなりが伯耆(ほぅき)国で、そこは、はやい話、出雲文化圏である。では、なぜ伯耆(ほぅき)国と呼ばれていたのか?

そこでは、すなわち「ハル」と「キ」の二神の神をあがめていた。そこでこの地名に残ったと考えられる。

この伯耆(ほぅき)国では、首長信仰と して殷王朝以来の牡牛と蛇の合体神を崇めていた。そこで、出雲神話からは牡牛神と蛇神の陰影を消すことができないわけである。倭人は周の太伯の子孫であると伝えられ、魏志では、倭国からの使いは自ら大夫(たいふ)と名乗っていたと記されているが、大夫(たいふ)とは周王朝時代の官位の一つであった。

周王朝では、「ハル」と「キ」は「伯萁」(ほうき)と書いていた。つまり、伯耆(ほぅき)国の住人は周王朝の氏族で、周を起こした「姫」(き)氏の血を引く人々であった。

周(前1100-256)が分裂したあと、加耶を経由して日本にやってきた。紀氏の祖である。または、さらにさかのぼった*殷(いん)の末裔、姜(きょう)の一族とも考えられる。地域的には後の斉、山東省あたり。「伯」の子孫とは、別な意味で「ハル」の子孫、つまり牡牛神「ハル」の後の一族ということになる。スサノヲの元型は「ハル」なのだろう。伯耆(ほうき)とは、「ひょうたん」ということで、伯耆(ほうき)国は、「ひょうたんこく」という意味で、これは笑える。

また、語彙の出典は、中国の伝説「伏羲(ふっき)と女媧(じょか)の伝説で、主に中国西南のミャオ族、ヤオ族の始祖神話として残されている。その姿は人首蛇身で、腰から下は蛇で尾をからませた独特の構図をとっている。

http://www.kingchin.jp/12_J.html

さらに、いままでの話に真実味が増してきたのはないでしょうか。

また、周王朝はシュメールの文明を受け継いでいたと言えそうです。

おそらくは殷王朝などもシュメール文明を受け継いでいたとは思います。

たとえば、漢字は殷が発祥ですが、シュメール 文字やヘブライ文字から進化したという説があるようです。

知っとうや? 漢字の起源

最近ではシュメール時代の約5200年前の絵文字であるウルク古拙文字が最古ではないかという説もあるようです。

しかし、私は、現在の基礎となった文字は、おそらく1万年前くらいに、現在のエジプトで発生したのではないかと考えています。

漢字の起源は、定説では発祥は中国で、その時期は少なくとも約3500年以上前のようです。現存する漢字で書かれた書物が3500年前ですから、発祥はそれ以上前になると思います。

シュメールやバビロンの時代の人たちが東征し中国へ行って、シュメール語や古代ヘブライ語から漢字に変化したと考えられないでしょうか?
何故、縦書きになったのかは分かりませんが。
そして、秦の時代、始皇帝が字体統一を行って、今の漢字の基礎が確立したようです。

日本には、5世紀から6世紀頃に漢字が輸入されています。
始皇帝の末裔と言われる秦氏を中心とした渡来人が持ちこみ、535年の継体天皇誕生の頃から急速に広まっていったようです。

漢字は、中国でシュメール文字やヘブライ文字から進化したという説には十分納得できそうです。

夏王朝の創始者は漢族ではなく東夷人であるからです。http://aioi.blog6.fc2.com/blog-entry-2436.html
西安を中心に居住していたのが漢族で、中華圏に属さない東の地は「東夷」と称されていた。そこは山東半島の東シナ海に面した地域のことですが、ここは始皇帝が中国全土を統一し戸籍編入する前は異なる文化圏だった。ここが徐福のいたところでもある。黄帝(漢族)と戦った蚩尤民族とはこの東夷のことだったのでしょう。

ウルク とはシュメール の先文明です。シュメール人とはまた異なると言われています。

そしてやはり、夏も東夷でした。こちらの引用元でも、殷や周が東夷だったとありました。

また、このような記事もありました。

以上のような話を再度思い返していた際、ふと以下のことを思いついた。

それは、周王朝の流儀をもった人々が日本に渡来していたとするなら、周の血族への分国化の流儀ももっていたのではないだろうかということだ。

日本の神道の源流は広く日本に広まっていたし、

地方勢力が征服されて糾合された気配はないが連帯性は感じられる、前方後円墳は地方の権力者も中央の権力者と同様に大きなものを築いていた、などの事柄を考えると、周王朝のように周王が存在し、周王と同様の姫姓の国が多々存在したということと似ている。

国が乱れてくると、周から春秋戦国時代に突入していくが、それまでは周王をトップに複数国が独立性を持ちながらも、周王を頂いていたということなる。

日本に広範に同様の価値観や連帯感が感じられるのは、周王朝の流儀によるという可能性もあるのではないだろうか。

そして、周の一族という意識はありながらも、出身地によって呉から来た海洋系は文身鯨面と史書に記されたように刺青をしており、陸上系はそのような風習がなく、ただし中国と違って海洋交易が重要であったので相対的に海洋系が優位であった、と考えることもできそうである。

また、中田氏の著書には、周公旦が大変小国である魯を統治国として求め、魯には周の祭祀発祥と言われ聖地とされる曲阜があり、日本に来た徐福は魯と関係があったということを述べている。

直接の倭に渡来した周派、朝鮮に渡来した周派、箕氏朝鮮系の周派、秦時代に朝鮮に逃れた韓などの人々など、これらが日本で融合したというのは、個人的には大変納得性が高いように感じられる。

さらに、楚がミャオ族王朝という説で、ミャオ族の宗教はユダヤ的であるとか、秦の技術には中央アジアや西アジアの要素があるなど、周が治めた中原以外のエリアに勢力をもった西よりの勢力は西方の影響があるので、この辺りの人々も特に楚は滅亡時に日本や朝鮮に渡来していた可能性は高いので、日本語や神社の慣習にユダヤの影があることも説明がつく。

https://ameblo.jp/osu-taro/entry-12023776889.html

まとめ

如何だったでしょうか。

教科書では、縄文時代や弥生時代、古墳時代のことは具体的にはほとんど取り扱っていません。それもこれも、記紀という偽書によって本当の歴史が分かりにくくなっているためです。

だからこそ、自分の手で日本の歴史を正しく知り、今の政治についても正しい知識を持ってして知っていくべきだと思うのでした。

 

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