前回の続きです。
今回は主に、中央アジア〜古代中国編です。
またユダヤ人についても言及しています。
考察だけ見たい方は、目次の「考察すると…。」をご覧ください。知識がある方は、これだけでも理解していただけると思います。
CONTENTS
シュメール人のルーツ
シュメール人とは縄文人だった
ルーツについては前回もお話ししたことではありますが、さらに具体的にお伝えしていきます。
創世記にはこうあります。
全ての地は、同じ言葉と同じ言語を用いていた。東の方から移動した人々は、シンアル[4]の地の平原に至り、そこに住みついた。そして、「さあ、煉瓦を作ろう。火で焼こう」と言い合った。彼らは石の代わりに煉瓦を、漆喰の代わりにアスファルトを用いた。そして、言った、「さあ、我々の街と塔を作ろう。塔の先が天に届くほどの。あらゆる地に散って、消え去ることのないように、我々の為に名をあげよう」。主は、人の子らが作ろうとしていた街と塔とを見ようとしてお下りになり、そして仰せられた、「なるほど、彼らは一つの民で、同じ言葉を話している。この業は彼らの行いの始まりだが、おそらくこのこともやり遂げられないこともあるまい。それなら、我々は下って、彼らの言葉を乱してやろう。彼らが互いに相手の言葉を理解できなくなるように」。主はそこから全ての地に人を散らされたので。彼らは街づくりを取りやめた。その為に、この街はバベルと名付けられた。主がそこで、全地の言葉を乱し、そこから人を全地に散らされたからである。— 「創世記」11章1-9節[5]
シンアルの地とありますが、この「シンアル」は「シュメール」と音が似ていることが指摘されています。つまり「シンアル」=「シュメール」です。
とすれば、シュメールでバベルの塔が建設され、それによって神の御怒りに触れ、人々が散っていったのでしょうか。
シュメールが文明の始まりだと言われているのは、こういう意味もあるのでしょう。
また、シュメール人は「東の方から移動してきた」とあります。
そしてその東は日本を指している可能性が非常に高いのです。
竹内文書では、シュメールについてこのように書かれているのだそう。
正統竹内文書 (茨城竹内文書とは違いますよ)も 本来は口伝なのだが 備忘録として 文書にはなっている。 誤解されているようなので 簡単にあらすじを書いておく。
1万2千年前に 世界最古の文明ができたのが 日本であり(縄文土器文明)、 文明はそこから世界に伝播した。
日本から神官の一集団が 西に向かい スメルという文明をつくった。 シュメールである。
太陽を信仰し 紋章も太陽である。 (うちの家の鉢植えはこの紋章!)そしてこの集団が 2つに分かれて 陸と海から日本に帰ってきた。イズモ族と ヤマト族である。
はじめに帰ったのは イズモ族で スサ・スガ・アスカ・スワ ・イセ・イズなどの都市を造った。遅れてヤマト族が戻ってきた。
彼らは戦ったが 最終的にイズモ王の皇女が ヤマト王に嫁いだ。
初代・神武天皇の誕生である。
といった感じかな。
https://plaza.rakuten.co.jp/takeuchisukune/diary/200706220000/
この竹内睦泰という男は見るからに怪しいうえにブログタイトルが最悪なのですが…、紹介しなければ話が進まないので致し方ありません。
このように竹内文書によれば、文明の始まりは縄文にあり、縄文人の神官たちははるばるメソポタミアを目指しシュメール王国を建て、シュメールが崩壊すると出雲族と大和族にわかれて日本にUターンして戻ってきたとのこと。
※竹内文書:天皇礼賛に導くプロパガンダ書(詳しくはこちら)であり、知られたくない史実が書かれてある書物でもあります。
かねてより日本では「大和族」と「出雲族」が対立関係にありましたが、そのどちらの民族も「シュメール人」として一括りにでき、さらには先史の「縄文人」としても一括りにできるのです。
さて、これらの事実は本当なのでしょうか。
しかし、これは単なる文献の辻褄あわせなんかではなく、遺伝子的・言語的にも証明できることなのです。
縄文人の遺伝子=殷人の遺伝子
日本人のルーツである縄文人は東アジアに広く分布し、原日本語を喋っており、古代中国の殷人は漢字のルーツの甲骨文字を発明した。そして、稲作地帯では農耕民として、草原の大地では遊牧民として活躍していた。彼らの原日本語は出アフリカによるまで遡る古い孤立語(出アフリカ古層A型)であった。
しかし、彼らは、東アジアの気候変動などによる民族の興亡の中で、日本列島に帰化(渡来)してきたのであった(参考)。日本列島は温暖の気候と豊かな海に囲まれ、異民族と伝染病を阻止しながら、豊かな食生活が保証されていた。
江上波夫の騎馬民族征服説とは、実は、大陸に活躍していた原日本語を喋る縄文人の同族の殷人の末裔が、馬を伴って海を渡って日本に帰化したことを示唆する説であった。
西域のチュルク諸語にも日本語に関係する言葉が見出せるが、遊牧民のチュルク系の先祖と日本人の先祖が東アジアで相互に影響しあったことの証である。また、日本語はウラル・アルタイ語族であると言う説は正しくはないが、大陸で多くの言語に影響を与えた証である。
引用元:騎馬民族征服説は復活した!
すなわち、殷人と縄文人のルーツは同じところにあるということです。
では縄文人はどこから来たのでしょう。もともと日本にいたのでしょうか。
しかし、1万4000年前の日本は氷河期にあり住むには寒すぎる気候にありました。
氷河期には、赤道直下の、現在では海の底に沈んでいる平原地帯が常夏ならぬ常春になっていて、そこに超古代文明が繁栄していたものと考えられます。現在は(日本列島は)温帯になっていて文明が栄えている北緯30度以北の高緯度地帯ですが、そこは氷河期には寒冷地で、文明が栄えるような場所ではなく、せいぜい探検隊による組織的探索の場所しかなっていませんでした。
赤道直下の、現在では海の底に沈んでいる平原地帯は、グーグルアースで調べれば誰にでも直ぐに分かりますが、東南アジアのスンダ陸棚しかありません。(中略)
集落や都市を造って文明を運営するのに適した土地は現在の熱帯地方で、当時は常春と称してもいいような気象状況だった。それが現在は海中に没しているスンダ陸棚にあったのです。
この文明は所謂「超古代文明」のひとつになります。この超古代文明の運営主体の名称が「スメル」。王の称号は「スメラミコト」となります。
14000年前くらいから氷河期が徐々に終焉へと向かい、何千年かかけて海面がゆっくりと50メートル程上昇し続けます。そんな或る時、12000年前に、或ることがきっかけで、50メートルにも及ぶ急激な海面上昇が世界規模で起こりました。50メートルの急激な海面上昇とは、私の住んでいる関西でいうと、山科区までが海域となり、海域が琵琶湖まで山地を挟んで極々近い位置にまで迫るということを意味しています。スンダ陸棚のスメル文明はこの時、海中に沈み、一旦滅亡しました。「スメル」文明中枢はタイのバンチェンへと避難移動し、そこを拠点とした文明復興とその文明の東西への伝播が企図されました。
その過程で「メソポタミア」に所謂「シュメール文明」が興ります。そればかりではありません。列島を含む東シナ海一円にも「シュメール文明」が興ったのでした。
https://blog.goo.ne.jp/sophia_h/e/99bacd1f9e3b740f2da11e4f977703c2
このように、縄文人はスンダランドにあったであろう超古代文明の人種なのかもしれません。その超古代文明があったスンダランドはムー大陸の一部だった可能性もあります。
そして、縄文人は消え去った「スメル文明」をメソポタミアに持ち込み、そこでまた再度「スメル王国」を立ち上げた、ということです。
さらに縄文人は、渡来人のルーツとも同じであった可能性がありました。
アジア全域で「古代日本語」が話されていた
⚫︎渡来人と縄文人のルーツは同じ
日本語の起源については様々な説が言われていますが、驚くべきことに、日本語の原型である「原日本語」はアジア全域で話されていたとのこと。
以下はこちらから転載。
実は、旧石器時代から縄文時代の原日本語は広く東アジアに分布していたのである。そして、2200年前、中国大陸の歴史区分で言う春秋戦国時代の戦乱を逃れて日本列島に渡って来た渡来人(渡来系弥生人)や古墳時代に渡来した秦氏は実は原日本語を喋り、現地の縄文人の原日本語と言葉が通じたのである。完璧に同じではなくとも、容易に融合できる語族の範疇にあったのである。だから、渡来人と縄文人との摩擦が無く、共存出来たのである。〔省略〕
古代の原日本人の分布(D)チベットのD系統は羌族が持ち、かつての羌族は古代の秦と競うように広大な領域を占め、秦、斉、タングート(西夏)、そして日本(倭)などと同族であった。〔省略〕① 現在の日本語は2200年前に渡来した。以前の言語は置き換えられた(参考)〔省略〕主要な説は2つある。1つ目は、定住が始まった3万年~1万2000年前の石器時代文化に直接由来しているというもの。この時代は原始的な農業も一部で行われていたが、主に狩猟採集生活が営まれていた。アジア大陸からは紀元前200年ごろに人の流入があり、金属製の道具やコメ、農業技術がもたらされたが、言語発達にはほとんど影響を及ぼさなかったというのがこの説の主張だ。もう1つの説は、紀元前200年ごろの朝鮮半島からの人の大量流入が日本の先住文化に非常に大きな影響を及ぼしたとするもので、先住民が大規模な移住を余儀なくされ、彼らの話していた言語もほとんどが置き換えられたと考える。最近の考古学上およびDNAの証拠は、いずれもこちらの説が有力であることを示している。〔省略〕日本語の起源と騎馬民族(参考)江上波夫の騎馬民族征服王朝説にヒントを得た東巌夫は、日本語の元となった言語として騎馬民族の喋る古代チュルク語を想定して、末裔の言語としてウイグル語などを研究して、古代チュルク語と日本語に関係があると指摘している。すなわち、古代の原日本語がアジア全域にまで影響していたことの傍証である。中国南部の少数民族と日本人とユダヤ人に共通の文化があるとすると、漢民族が居なかったか少なかった時代に、直接に交流していたと考えられる(参考)4000年前の中国大陸の遺跡の住人は日本民族の先祖かも知れない(参考)
⚫︎方言は“原日本語”の痕跡だった
日本語には方言がいくつか見られますが、方言は縄文人と渡来人のルーツが同じであることを示唆するものでした。
以下はこちらから転載。
例えは縄文時代は1万年以上の長い歴史を持っていることが認められているが、当時の原日本人は日本列島を含めた東アジアに広がっていたと考えられる。彼ら原日本人が広大な大陸で数万年の長い時間の中で原日本語を磨き上げたが、相互に若干異なった言語(方言)になっていたが、日本列島に波状的に渡来して定住していく過程で②の同心円状方言分布となったと考えらる。渡来人達は日本列島へ渡来してまだ精々2600年程度であり、数万年の原日本語の歴史の中で日本列島内での方言の変化は大きくないと考えられる。〔省略〕
近畿を中心とした東西のアクセントが同じ東京アクセントであった。すなわち、在来の縄文系の末裔と西日本の渡来系の末裔の方言が同一アクセントである事を示唆し、縄文人も渡来人もルーツは同じであったことを示唆する。近畿の関西弁は百済人の言葉とすると、終期に渡来した百済人は特異的な日本語を喋っていた事になる。〔省略〕
このように深い史実が隠されていました。
紀元前200年頃に中国から日本へ大量の渡来人がやってきたとありましたが、つまりこの渡来人のルーツが古代の縄文人と同じルーツだということになります。
紀元前200年というと、ちょうど「秦」の始皇帝の王朝が弱り、「垓下の戦い」で勝利した劉邦が「漢」という王朝を建国した頃でした。
つまり大量の渡来人とは、のちに漢字によって滅ぼされ行き場を失った「秦」の民のことです。
この「秦」のルーツをたどれば、縄文人が文明の始まりにあり、縄文人がシュメール王国建国し、そこからUターンするようにして日本に戻ってきたことが想像できるのではないでしょうか。
では「秦」は一体どのような民族の集団だったのでしょう。
中国「秦」のルーツ
秦の始皇帝の正体。
以下は、こちらからの転載。
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秦の始皇帝 = 嬴政( えいせい )= バクトリア知事ティオドトス1世( 〜BC210 )は、BC256年、アレキサンダー大王の将軍セレウコス・ニカトルを継いだソテル王にクーデターを起こし、バクトリア・ソグド地域にグレコ・バクトリア王国( 大夏・大秦 )を興したが、西方のパルティア王国が独立して西方との連絡が絶たれたため、東方に進出。 東方の蛮族を圧倒的な武力で瞬く間に制圧し、大秦の分国 : 秦を建てて「 始皇帝 」を名乗った。
※ このストーリーはみなさんが学校で習った司馬遷の書いた 「 フィクション = 史書 」 のストーリーとはまるで異なっています。
歴代支那王朝の自王朝正当化の為の文書である歴史書からは距離を置いた外部勢力による客観的な歴史書を集大成した 「 契丹北倭記 」 の詳細な分析と検証によって導き出された 「 史実 」 です。
「 契丹北倭記 」 は、出典を明示した様々な古文書からの引用で構成されていますが、おそらくは秦の影響の及ばない北辺に位置しているため、始皇帝の 「 焚書坑儒 」 を免れた、まだ捏造の習慣のなかった頃の古文書を参考にしているものとも考えられます。なぜなら 「 契丹北倭記 」 の解読によって、歴史の点と線 ( ミッシング・リンク ) が見事に結ばれていくからです。
「 焚書 」 は日本でも古事記・日本書紀編纂時に大々的に行われていますし、その対象となった、舎人親王( 新羅人 )の天皇記・日本記編纂時にもそれ以前の蘇我系などの古文書の焚書が行われ、その後に自らの捏造歴史書を上程しています。大陸・半島・列島では、こうした 焚書 ~ 捏造 史書の歴史が連綿と続きますが、中でもひどいのが朝鮮半島の歴史書です。
そのことは、昨今の韓国のひどさ加減を見ればよく理解できるかと思います。現在の政治経済などの報道が嘘で塗り固められている様に、いやそれ以上に、古代の公式文書( 歴史 )は嘘に満ち満ちています。(省略)
また、兵馬俑の兵士たちの身長は180cm前後と東洋人らしからぬ体躯で、身にまとう挂甲がイッソスの戦い( BC333 )でアレキサンダー大王と戦ったアケメネス朝ペルシャ:ダリウス3世の兵士のものとほとんど同じものです。 ダリウスの兜の上はマフラーのようなもので包まれ、鎧には肩当があり、足の付根部分はUの字にえぐられ、これもまた兵馬俑の兵士たちのものとの一致をみています。 さらに、ペルシャ軍の馬は、耳と尻尾の付け根が結ばれていますが、これもまた兵馬俑の陶馬と同じです。
ディオドトスは、ペッソスの末裔を名乗ったりもしてるようだが、ペッソス将軍とはダリウス3世がイッソスの戦いに負けた後、君主ダリウス3世を謀殺して自らペルシャ王を名乗ったバクトリアの総督(サトラップ)。 更に、秦の荘襄王は自らを育てた商人:呂不韋の妾を気に入り、生まれた子ども = 政 の実の父親は呂不韋との噂は始皇帝の時代からあったようだが、呂不韋の 「 呂 」は、ユダヤレビ族のことでもあり、レビ族バクトリア商人の子どもが 政 = ディオドトス1世ということであり、支那人がその祖とする「 CHINA = 秦 」 が実は、バクトリアのペルシャ系ユダヤ人の国だったことが明らかとなってきます。
始皇帝が、比類なき世界最強のマケドニア・ペルシャ軍団であるとすれば、後進国 : 春秋戦国時代の群雄割拠各国軍団をなぜ一気に殲滅できたかの謎がいとも簡単に溶けてしまいます。
また、始皇帝は、ペルシャのサトラップ制と同様の中央集権・郡県制の統治手法や、度量衡や通貨、荷車の軸幅(車軌)、また位取り記数法、交通網整備など、ペルシャとの関連が指摘される手法を多く導入しています。
司馬遷の 「 史記 」 は、支那 〜 朝鮮 〜 日本のその後に続く偽書( 日本では「 古事記 」「 日本書紀 」など )の数々を編み出した偉大な 「 元祖 偽書 」 として今尚その名声を博しています。
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以上にある通り「秦の始皇帝」=「ティオトドス1世」である可能性があります。
さらに、始皇帝の父親は、実は呂不韋で、呂不韋はユダヤ人レビ族であるとのこと。またしてもレビ族ですが、このレビ族は一体何者なのでしょう。それについてはまた次回、記事にしたいと思います。
また、如何しにてティオトドス一世は秦の始皇帝となるに至れたのでしょうか。真の歴史はどのようなものなのでしょうか?
それを知る前にはまず、ユダヤ人がどのような歴史を辿ったかの概略を知る必要があります。
⚫︎失われた10支族の行き先=バクトリアは、スキタイの地。
ダビデが王となった頃から説明すると、紀元前1000年頃、ユダ族のダビデがイスラエル王国の王となりました。
このダビデ像は有名ですよね。
しかし、紀元前922年にイスラエル王国は分裂し、イスラエル王国(10族)とユダ王国(ユダ族とベニヤミン族の2族)に分かれてしまいました。
イスラエル王国(10族)は、紀元前721年にアッシリアのサルゴン王に滅ぼされ放浪民となりました。イスラエルの10支族は歴史から姿を消し、それらの支族は今では「失われた10支族」と呼ばれています。
一方でユダ王国(2族)は、紀元前586年にバビロニアのネブカドネザル王2世に滅ぼされました。ユダ王国の民はバビロン捕囚後、紀元前538年にイスラエルに戻りますが、バビロニアに反旗を翻した際に再度攻め込まれ、神殿も破壊され、王国は完全に滅んでしまいました。以後、20世紀になるまでユダヤ人(ユダヤ教徒)は国家を持っていません。
…と、ユダヤ人はこのような歴史を辿りました。このような悲惨な歴史となったのは、ユダヤ人が神に対して反逆した結果でした。ダビデはただ主である神を拝み祝福されましたが、その子であるソロモンが王になると徐々に他の神々に心が向くようになり、最後は完全に悪魔崇拝と女に溺れてしまいます。その後は民の中にも悪魔崇拝が蔓延り、国は分裂し、先に書いた通りとなりました。
このようにしてユダヤ人の多くが流浪の民となるわけですが、残された人々はどこへ向かったのでしょうか。
更に「失われた10支族」の行き先を見ていきます。
●イスラエル10部族の渡来伝説のあるところ
「主(神)は、イスラエル(北王国のこと) を打って、水に揺らぐ葦のようにし、彼らの先祖たちに与えられたこの良い地からイスラエルを引き抜き、ユーフラテス川の向こうに散らされるでしょう。彼らがアシェラ像 (偶像) を造って、主の怒りを引き起こしたからです」 (Ⅰ列14:15)。
この予言は、約200年後のB.C.721年に成就しました。その年、アッシリア帝国が北王国イスラエルに攻め入り、民の主だった人々を、みな捕囚としてユーフラテス川の東側に連れ去ったのです。こう記されています。
「 (北王国最後の王) ホセアの治世第9年に、アッシリアの王はサマリヤ(北王国のこと)を取り、イスラエル人をアッシリアに捕らえ移し、彼らをハラフと、ハボル、すなわちゴザン川のほとり、メディアの町々に住ませた」(Ⅱ列17:6)。
考古学者は、この捕囚を行なったアッシリア王が古代碑文に残した記録を、発見しています。その碑文によると、このとき捕囚された民の数は約3万人でした。
アッシリア王は北王国イスラエルの主だった人々を、捕らえ移したのです。祖国に残されたのは、貧しい人々や、庶民だけでした。これは被征服民を無力化し、彼らが二度と反乱を企てないようにするための、アッシリア帝国の占領政策だったのです。
人々が捕らえ移された地「ハラフ、ハボル、ゴザン川のほとり、メディアの町々」とは、ユーフラテス川の東側の地です。北王国イスラエルの10部族は、アッシリア帝国が滅びた後も祖国に帰らず、ユーフラテス川の東側の地域に離散しました。
A.D.1世紀に生きたユダヤ人歴史家ヨセフスは、こう書いています。
「イスラエルの10部族は、今でもユーフラテスのかなたにおり、膨大な民衆となっている」
(古代ユダヤ誌11巻5章)http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/032kodai.htm
このようにしてアッシリアの王は、王国の主だったユダヤ人を強制的に移住させ、歯向かってこないように無力化しました。
その移住先のひとつに「メディア王国」がありました。
「メディア王国」がある地は「バクトリア」と呼ばれる地でした。
かつてこの土地はバクトリアと呼ばれ、紀元前6世紀以降、アケメネス朝,アレクサンドロス帝国,セレウコス朝,グレコ・バクトリア王国とさまざまな王朝が交代支配してきた。しかし、その支配者が変遷する中でも常にバクトリアに住んでいたのはバクトリア人と呼ばれるイラン系の土着民であった。紀元前255年頃から紀元前139年頃にかけてバクトリアを支配していたギリシア人国家のグレコ・バクトリア王国は、紀元前140年~紀元前130年の間に北の遊牧騎馬民族であるアシオイ,パシアノイ,トカロイ,サカラウロイ[3]の4種族の侵攻によって滅ぼされた[4]。
出典:wikipedia
「バクトリア」といえば「月氏」です。「グレコ・バクトリア王国」が建てられる前から「バクトリア」という国があり、またの名を「大夏国」と呼びます。(※諸説あり)
「グレコ・バクトリア」もまた、バクトリアの名がつくほどですから「月氏」が関わっていた可能性も大いにあり得ます。
では「月氏」とはどのような民族だったのか。
以下こちらから転載。
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やがて漢に帰国してきた張騫が語ったところによると、大月氏は今でも遊牧を営んでいて、弓をひく兵を10~20万ほど抱えてアムダリヤ川の北に居住し、アムダリヤ川の南にある「大夏」という国を臣従させていた。大夏は遊牧民ではなく定住民で100万以上の人口を持ち、国全体の王はいないが、都市ごとに小王がいた。その兵は臆病で戦争を怖がるが、商業に長けていたという。張騫が大夏に滞在していた時に中国の四川省の辺りで産する竹杖や布を見かけたので「どこでこれを手に入れたのか」と聞いてみたところ、「我々の商人が出かけていって身毒(インド)で購入してきたのです」とのことであった。
その「大夏」であるが、この国の所在する地域には、しばらく前まで「バクトリア王国」という国があった。ここで数百年ほど時代を遡って説明すると、バクトリア地方(現在のアフガニスタン北部のあたり)は非常に古いオアシス地帯で「千の都市を持つ」と伝えられ、もともとはイランの王朝「アケメネス朝ペルシア」の版図に含まれていた。ここはアケメネス朝の東方諸州の中でも最重要な地域であったらしく、「ゾロアスター教(拝火教)」の開祖ゾロアスターの出身地であるとの説もある。しかしアケメネス朝は紀元前330年にギリシアから遠征してきたアレクサンドロス大王の軍勢によって滅ぼされ、バクトリアもアレクサンドロス軍に征服された。アレクサンドロスは物産豊かで交通の要衝でもあるバクトリアに2万人ものギリシア人を入植させ、さらにインド北西部へと進撃していった。
アレクサンドロスの死後、彼の帝国は「セレウコス朝シリア」「プトレマイオス朝エジプト」等に分裂、バクトリアはセレウコス朝の一部となった。セレウコス朝の領域は現在のシリア、イラク、イラン、アフガニスタンを含み、ギリシア文化とオリエント文化が融合した「ヘレニズム文化」を発展させたが、初代国王セレウコス1世の死後は急速に衰えた。そして紀元前250年にバクトリアのギリシア人たちがセレウコス朝から分離独立して建国したのが「バクトリア王国」である。やや遅れてイラン方面に「アルサケス朝パルティア」が成立、アルサケス朝は西方に、バクトリアは南方へと進出していく。
バクトリア王国は紀元前175年頃にヒンドゥークシュ山脈を越えてインド北西部のパンジャーブ地方に勢力を拡大するが、紀元前162年頃にはヒンドゥークシュ山脈以北(バクトリア地方)と以南(パンジャーブ地方)で別々の王家を立てるようになった。パンジャーブ側の王家で有名なのがメナンドロス王で、仏教に深い関心を示したことで知られている。仏典『ミリンダ王の問い』のミリンダがこの人である。バクトリア地方のギリシア人は紀元前145年頃に来襲してきた「スキタイ(サカ)」という遊牧民の「アシオイ」「パシアノイ」「トカロイ」「サカラウロイ」という4つの部族に滅ぼされた。パンジャーブのギリシア人たちはその後もしばらく生きながらえ、その地にギリシア文化を植え付けたが紀元前75年頃までに消滅した。
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とりあえずは「バクトリア」=「月氏」につながり、ここあたりに言及するのは難しいので、このくらいにしておきます。
「メディア王国」の地=「バクトリア」にユダヤ人は移住させられたわけですが、その後ユダヤ人たちは「スキタイ」と合流した可能性があります。もしくは野蛮なスキタイに従わさせられたのか、それともユダヤ人に混じって悪魔崇拝していた異教徒のユダヤ人とスキタイが同盟を組んだのか、それは分かりません。これに関しては、ユダヤ人は敬虔で勤勉な民として知られており、そんな民が野蛮な民族と一緒になって、強盗や海賊をするのかという疑問があります。
また、メディア王国のあった場所は以下の画像の通りです。
「新バビロニア」がありますが、紀元前612年にカルデア人によって建国された国でした(=カルデア王国)。このとき長らく「アッシリア」は栄えていましたが、「新バビロニア」は「メディア王国」と同盟を結び、アッシリアを攻め入りました。メディア王国と同盟を結べたのは、メディア王国がアッシリアの支配下に置かれていたためでした。そうして、紀元前612年にアッシリアは陥落。これによって、新バビロニアは再びその名を馳せることとなったのでした。
時代は進み、紀元前500年頃。
メディア王国はアケメネス朝ペルシアのキュロス2世によって征服され、ペルシア帝国の一部となりました。
さらに、紀元前300年頃。
マケドニア王国のアレクサンドロス大王によって征服されました。アレクサンドロス大王は東方遠征を行いインドを目指していましたが、その途中でいくつかのギリシャ系植民都市を建設しました。しかし、アレクサンドロス大王の死後は「セレウコス朝シリア」の一部となり、メディア王国があった場所には従軍ギリシア人が住み続けました。
そして、紀元前246年。
サトラップ(総督:古代メディア王国・アケメネス朝ペルシア王国及び、その政治体制を受け継ぐ諸国で用いられた州の行政官)の地位にいた「ティオトドス」が反乱を起こし、「セレウコス朝」から独立して、バクトラを都とする「グレコ・バクトリア王国」を建国しました。
やっと「ティオトドス」が出てきました。この「ティオトドス」が後に「秦の始皇帝」となるわけです。
以上のことから言えるのはこのメディア王国の地に、スキタイと合流したであろう「ユダヤ人」と「ギリシャ人」が長らく混在していたということです。「ティオトドス」が建国した「グレコ・バクトリア王国」はギリシャ人国家でしたが、そこにはユダヤ人もいました。
同時期、バクトリア王国と同じく「セレウコス朝」から独立した「パルティア王国」とは同盟を結び、西方を固めました。同盟は紀元前189年まで続きます。「パルティア王国」の全盛期の王は「ミトラダテス」であり、ミトラ教と関係があります。王国ではゾロアスター教も存続していました。
その後、「グレコ・バクトリア王国」の第4代目の国王となった「デメトリオス」は「ガンダーラ」を占拠し、その弟はインドのマウリヤ朝を征服し、王国の最盛期を築きました。
発展と分裂
インドに進出したデメトリオス1世(在位:紀元前200年 – 紀元前180年)は、ヒンドゥークシュ山脈を越えて南下、ガンダーラを占拠した。さらに北西インドの侵略を続け、アラコシア、ゲドロシア、カチャワール半島まで支配下とした。
デメトリオス1世に続いて、その弟アンティマコス1世(在位:紀元前180年 – 紀元前171年)の治世に入ると、インドにおけるマウリヤ朝の衰勢に乗じて更にインド方面へ勢力を拡大し、タクシラを占領してガンダーラ地方を征服した。しかし紀元前171年頃、 アンティマコス1世は武将の一人であるエウクラティデスによって殺される。ほどなくして、グレコ・バクトリア王国はバクトリアに残存する集団と北西インドの集団(インド・グリーク朝)に分裂した。
このようにして「グレコ・バクトリア王国」は分裂してしまいます。そしてインドの王朝も誕生しました。
⚫︎紀元前2世紀後期
ちなみに紀元前2世紀頃は図のようになっていました。
中央アジアでは「パルティア」「バクトリア」「大月氏」「烏孫」などの勢力があり、
朝鮮半島周辺では「衛氏朝鮮」「三韓」「高句麗」「鮮卑」などがありました。
サカ族の正体。
大夏国=バクトリアを建国した「月氏」でしたが、一方でバクトリアを滅ぼした「サカ族」とはどのような民族だったのでしょうか。
まずサカ族はスキタイと結びつけられます。スキタイとはいわゆる騎馬戦隊の遊牧国家でした。
以下、こちらから引用。
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遊牧騎馬民族国家の誕生
ただこの段階においては、農耕民は国家を形成していましたが、遊牧民はまだ部族集団から抜け出していませんでした。そのためその勢力もたかが知れており、文化的に農耕民に遅れを取っていると言わざるを得ない状態でした。ところが紀元前8世紀頃、初めて国家としての体制を整え、独自の絢爛たる文化を花開かせた民族が現れます。すでに何度も名前の出てきているスキタイです。
スキタイは、遊牧民のイメージからはかけ離れた、言ってみればとてもゴージャスな文化を生み出しました。それは黄金の櫛であったり、見事な騎士の絵が描かれた壷であったりと、その美しさと量の豊富さはけっして農耕民の文明に劣るものではありません。そしてそうした文化を生み出す基盤となる、国家の存在も疑う余地はありません。ヘロドトスといえばペルシア戦争を書き表し、歴史家の父として非常に有名ですが、彼はスキタイに実際に行ってその実態を調べています。それによれば、スキタイは4つのグループに分かれており、「農業スキタイ」「農耕スキタイ」「遊牧スキタイ」が、数も多く完全な遊牧民であった「王族スキタイ」によって支配されていたといいます。「農業」「農耕」の両スキタイは、スキタイの土地に住み、スキタイに従っているためにスキタイ人と見なされていますが、実際は恐らく遊牧民に農作物やその他の品々を収めていた異民族であったのでしょう。事実、スキタイの土地には多数のギリシャ人がおり、華美な装飾品や家具などをスキタイのために作っていたといいます。そしてスキタイそのものは、東方に住んでいた「遊牧」および「王族」スキタイでした。とくに「王族スキタイ」は強大な権力を持ち、他の3つのスキタイのもとへ太守を派遣して治めさせるなどしていたことを考えると、かなりしっかりとした統治機構を持っていたのではないでしょうか?
スキタイの歴史に果たした役割は絶大です。なぜなら、スキタイこそ、それまでせいぜい部族単位でしか行動しなかった遊牧民を束ねて、国家の枠組みを形成したからです。これにより遊牧民は複数の部族で共同体となる術を知り、結果的に交易や戦争も大規模なものとなっていきました。スキタイが登場して以降、その文化とともに、国家の概念も他の遊牧民の間にすばやく広まっていきました。そしてたちまち匈奴、月氏、パルティアなどの強大な遊牧騎馬民族国家を誕生させることになります。そして広大なステップ地帯を母体として、後数千年に渡る騎馬民族と農耕民族の抗争の歴史をつむいでいくことになるのです。
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このように「スキタイ」はもはや体制の整ったひとつの国であり、“小さな日本国”と言っても良いのです。軍事・政治面でも他の国家とひけを取らない強さを持っていました。
複数あるスキタイのコロニーの頂点には「王族スキタイ」が君臨していたようですが、このスキタイの王族はまるで「天皇」と同じだったと分かります。「王族スキタイ」であっただろう「サカ族」の衣装もまた、日本の王族が身につけていたものととても似ています。
このようにサカ族は日本の王族と共通点が多い民族でした。
スキタイも複数の集団に分かれていましたが、サカ族もまた3種類に分けられていたようで、そのうちの一つに「サカ・ティグラハウダー」がおり、意味はトンガリ帽子のサカなのだそうです。より王族に近そうですね。
⚫︎サカ族=蘇我氏。
そんなサカ族ですが「サカ族=蘇我氏」とも言われています。
ここもまた複雑で分かりにくいところですが、蘇我氏が中心となって建てた国が日本にありました。それが「東表国」です。「東表国=豊国=伽耶=加羅」でもありました。時代は一気に遡り、建国されたのは紀元前1000年あたりと言われています。
建国した蘇我氏は、はじめから「蘇我氏」だったのではありません。
彼らは遠くメソポタミアから渡ってきた「エブス人」だったという説があります。
【東表・豊日国】のことで、朝鮮の狗邪韓国(駕洛国・金官加羅)を飛地としていました。即ち、この王家は北九州を本国として朝鮮半島の弁辰地域を飛地として支配したのです。
【東表国】とは元来、東方のオッフル(サマリア)国を表します。
サマリアのオッフル国の植民市、九州の豊国、朝鮮南部、金官加羅でありました。
東表国の王はエビス王の【クルタシロス】といい、金官加羅の首露王のことですが【クルタシロス】とは、タルシシ船を意味し、【シロス】は、治政者、王を意味しソロモンの製鉄コロニーでありました。ソロモンの父、ダビデが建国した当時エルサレムを支配していたエブス人は、エジプトから撤退した、かつての【ヒクソス】で、ヒクソスになる以前は【アビシニア】でした。
アビシニアとは元来【混血者】の意味で日本のエビス(エミシ・夷)もアビシニアの意味です。
BC8、7世紀にアビシニア(エブス)人と現在のソマリアにいたオッフル人の植民地が北九州東部の豊国地方の東表国で、駕洛国または金官加羅国にも飛地したのです。
金官加羅の王姓は金氏、または中臣氏です。奈勿王の時に独立して新羅を建てその子孫が蘇我氏になります。
東表国についても、紀元前200年後期の大陸の列強と、ややこしい倭人も絡んできますので省略します。
また「月氏」=「サカ族」なのか、それとも対立していたのか、これを追求すると沼に嵌るので、これに関しては今のところ断定することができません。
ですが私見では「月氏」は「サカ族」ではないと思っています。つまり対立関係にあったのではないでしょうか。
中間まとめ
とりあえずこれまでのことを簡単にまとめると、
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・古代縄文人=殷人。
・古代縄文人と秦の渡来人のルーツは同じ。
・秦始皇帝=ティオトドス。ティオトドスはグレコ・バクトリアを建国。
・古代バクトリア=大夏国=月氏。
・サカ族=蘇我氏。
・日本には蘇我氏と繋がりの強い「東表国」が存在。
・蘇我氏=エブス人?
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となります。
古代中国・シュメールのつながり
エラム人によるインダス文明。
まとめに少し書きましたが、エラムはシュメールのウル第三王朝の支配下に置かれていましたが、最終的には追い出されました。
それはエラム人が〔悪どい商売人〕だったからなのだそうです。
以下はこちらから転載。
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メソポタミアの支配者たちが首都スーサに対して行った軍事的侵略によって、原エラム文明は遅くとも前27世紀に終わりの日を迎えた。スーサ以外の都市に対する攻撃は知られていないので、それはネットワーク全体に対する攻撃ではなく、メソポタミアと直接交渉関係にある中心都市スーサ、あるいはそれを含むエラム地方の一部に対する局地的侵略と支配であったと思われる。しかし前2700年頃から前2000年頃までのスーサでは、「王の町」とアクロポリス丘で連続的住居が営まれており、外部からの攻撃で都市機能が壊滅し、廃墟化したわけではなかったことを物語っている。この種の攻撃は、都市の破壊を目的とするものではなく、武力を使って強引に行われる、自らに非常に有利な商取引の一形態だからである。足元を見られて高い買い物をさせられているという、売り手に対する消費者としての憤激から、メソポタミアの支配者たちは「悪徳商人スーサ」の懲罰に赴き、抑え込んでタダで商品を買ったというわけである。
出典:後藤氏/p68(太字強調は引用者による)
原エラム文明はこれで終焉を迎えるが、スーサやエラム勢力は存続し続け、シュメール人たちが遺した文書にはエラムやスーサのことが度々言及されている。
出典:後藤氏/p66
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また、年表からも分かるように「原エラム文明」の後には「インダス文明」が誕生しています。
実は「インダス文明」と「エラム文明」には繋がりがありました。
以下、こちらから転載。
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後藤健によると、インダス文明の都市設計に関与したのは、イランに存在したトランス・エラム文明である。この文明は、もともと図1に示されている通り、スーサを首都に置き、メソポタミア文明から穀物を輸入し、東方で採掘した鉱物を輸出していた。後藤は、これを原エラム文明と呼ぶ。
ところが、紀元前27世紀の末、シュメール人の都市国家の一つであるキシュに首都のスーサを奪われてしまい、エラム文明は、首都を奥地のシャハダードに移転する。新しいエラム文明は、メソポタミア文明との交易を続けながらも、新たな穀物の輸入先を求め、インダス川流域に、第二のメソポタミア文明を現地人に作らせたと考えられる。事実、この国の特産品であるクロライト製容器が、インダス川河口付近の湾岸やモエンジョ・ダロ遺跡の下層から見つかっている。このことは、インダス文明成立以前に、トランス・エラム文明の商人がインダス川流域を訪れ、交易を行ったことを示唆している [後藤健:インダス・湾岸における都市文明の誕生,都市と文明, p.63-85]。
物資を運ぶには、陸路を通るよりも、河川や海などの水路を使う方が便利である。
そのため、やがてトランス・エラム文明は、ウンム・アン・ナール島、さらにはバーレーン島に進出し、水路ネットワークを活用するようになった。陸路が衰退することで、インダス文明は最盛期を迎える。
インダス文明は、なんで、突如として整然とした都市が出現したか?それを担った人々は?・・
などいろいろ未解明な部分が多かったのですが、この記事のように、メソポタミア文明に張り付いた商人都市:トランスエラム文明が媒介していると考えるとつながってくる。
トランスエラム文明は交易路上に、都市を建設したので、インダス文明だけではなく、交易路の海上部分(ペルシャ湾上)にも、ウンム・アン・ナール文明と呼ばれる都市文明がおこっている。
>前27世紀末、イラン高原のアラッタ国に、エラム人のトランス・エラム文明が興る。「前2400年頃、オマーン半島の西岸、アブダビのウンム・アン・ナール島が突然「都市化」する。そこで興ったウンム・アン・ナール文明は、トランス・エラム文明の移転と考えられ……その島に新首都をつくり、オマーン半島全域に及ぶ、その目的は銅山の開発のほかに、メソポタミア、イラン、そしてインダス地方を海の道でつなぐことにあった。
>メソポタミアは農産品を、インダスは奢侈品を輸出している。また、メソポタミアはあらゆる交易品の需要者となっているが、インダスは一部の交易品の需要者になるにとどまる。『インダスの海上交易都市』より
以上のように、
メソポタミアのすぐ近くに興った交易都市スーサ(原エラム文明)
→ そこからイラン高原の都市シャハダード(トランス・エラム文明)
→ そして海上のウンム・アン・ナール島(ウンム・アン・ナール文明)
へ商人の拠点を移動していく。この移動性は、交易都市の性質をよく表していると思う。メソポタミアという巨大都市国家群に張り付いて、交易を行い利益を上げていた商人都市の文明だ。(このエラムはおそらく後世のベネチィアのような交易都市だ。)
インダス文明は、この商人都市の穀倉地帯としてトランス・エラムの商人によって開発され、その際に、現地の原住民(トラビィダ人)を用いた。次いで原住民を教育してメソポタミアへ輸出する奢侈品製作のための工房都市として機能させた。
こう考えると、インダスの都市住民は農閑期の農民ではないか ・・・・という説とも整合してくる。
すでに都市国家が成立して千年以上がたち、高度な支配体制と観念操作(神観念?)の手法を洗練させてきたエラムが、純朴で勤勉なトラビィダ人を組織化して、均質な都市を築き、農業と工芸に従事させた。それがインダス文明ではないだろうか?
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これらのことからも、エラム文明=インダス文明なのはほぼ確実でしょう。
詳しくはこちらのブログでも説明されています。
インダス文明は紀元前2600年〜1800年とされています。インダス文明が栄えた地には先住民の「トラヴィダ人」がいました。エラム人はこのトラヴィダ人に文明技術を伝えたという見解もあります。これは先にもあったように、排水路も完備した整然とした都市であったからです。
また【エラム人が先住民であるドラヴィダ人を支配していた】とありましたが、【エラム人とドラヴィダ人が同族であった】可能性も否めません。
というのも【サカ族とドラヴィダ人が同族であった】説もあり、ここから新たな見解も誕生してくるのです。
以下、こちらから転載。
BC6000年頃、死海の北、ヨルダン川沿いの世界最古の町、エリコからアナトリアへ、そこで高温の火の技術を発明し、そのおかげで土器を焼くことが出来、アナトリアで自然銅を発見した人々は銅を加工することを覚え、銅を採集するために世界に散っていったと考えられます。
主たる人々はメソポタミアへ移動し大規模農業を始めたと考えられますが、なかには、更に銅を探しに北へ行った人々もいた可能性があります。(中略)
やがて、ナマヅガの彩陶文化は、サカ族によって、東西に運ばれイラン高原における「プロト・エラム文化」に大きな影響を与えました。またラピスラズリが、ハラッパ文化以前のコト・ディジ遺跡から発見されていることから、彼ら、サカ族がドラヴィダ人以前のインダス文明の原形を造っていたことが分かり、感動を覚えます。(中略)註:サカ族とドラヴィダ人が同族の可能性。
クルガンというのは、ロシア語で土饅頭という意味です。クルガン人は、非常に古い時代、BC3500年からBC2300年頃、南ロシアからダニューブ川流域に住んでいた半農半遊牧民族です。彼等は、最初のインド・ヨーロッパ族であり、最初のギリシャ人だと考えられています。クルガン人の到来とともにギリシャでも馬の骨が出土するようになりました。
人類が牛に出会ったのは、数万年前に遡ります。BC7000年頃あるいはそれより少し後、アナトリア南部のタウラス山脈の麓、チャタルフュイックの遺跡では、牛頭信仰の起源と思われる牛の首が壁に掛けてありました。
これらのことからも「サカ族」は「エラム人」や「シュメール人」と同族なのかもしれません。
また、以下こちらから転載。
アナトリアには、原ヒッタイト族、カルトヴェリ族、ハヤシャ族などが住んでいました。
ヒッタイト崩壊後、いくつかの少国家がヒッタイトの伝統を継ぎ、重要都市のカルケミシュはハッティ国、オロンテスはハッテナ国となりました。
そこに、ヒッタイトのムシュ族やカスカイ族が入ってきたのです。
このようにウラルトゥは、当初からミタンニやヒッタイトのフルリ人、カッシート人、チュルク人などからなる、いくつかの部族の連合体でありました。
⚫︎考察すると…。
だれとだれが同族で敵同士か、それを細分化するのは難しいかもしれません。
しかしあえていえば次ような推論ができます。
「ドラヴィダ人」は土着民ではなく移動してきた民族である説もあり、これらのことからも「ドラヴィダ人」と「エラム人」が同族であることは十分に考えられます。
また「エラム人」は「ウル第三王朝」の「ウル人」から追い出されました。これは彼らが同族でありながらも対立関係にあったことを意味しています。
シュメール首都「ウル」では、月神「シン」が拝まれていました。月氏もここから来ていると考えれば、月氏による「バクトリア」王国や、その「バクトリア王国」の王であるティオトドスが=秦の始皇帝であることも納得いきます。
一方で「エラム人」はどうでしょうか。月氏およびサカ族への言及は難しいところがありますが、サカ族=塞族だとすれば、月氏が塞族を追い出したのは対立関係にあったからなのかもしれません。つまり、月氏(秦)vsサカ族です。そのサカ族はというと、インダス文明を担った「ドラヴィダ人≒エラム人」の前からインダス文明の基礎を作っていた。そして彼らは航海技術に長けていました。エラムの首都スサは、日本の神話のスサノオとも関連付けられていますが、スサノオは出雲族です。
また、航海技術が長けていたのは「海の民」でしたが、「海の民」といえば「ヒッタイト」で、ヒッタイトは海の民によって滅ぼされました。「ヒッタイト」=「ハッティ人」であり、すなわち秦。秦vs海の民、ということですが、昔から出雲族と航海は深くつながりがあり、海の民=出雲族ともいえます。
これらのことから浮かび上がるのはやはり、秦(アーリア)vs出雲族なのです。
世界はアーリア人(秦氏)とチュルク族(月派・出雲)の抗争の上に成り立っている。
大昔から世界を巻き込んでの【秦・出雲族】【北朝・南朝】【大和族・出雲族】の争いがあったことは確かなことです。
関ヶ原の戦いも明治維新も第二次世界大戦もすべては源平合戦だった。
しかし、彼らは結局ルーツを同じくしています。
わたしたち庶民を取り除いた、彼ら【支配層は同じルーツである】ということです。
大まかにいうと、彼らはスンダランドの超古代文明から来た【縄文人】はアナトリアに住み着き、彼ら【縄文人】がのちの【ウラルトゥ】でもあるのでした。
「殷」もまた、そうして建てられた国のひとつだったに違いありません。
「殷」は「夏」を滅ぼしてできた国でした。「夏」といえば「バクトリア=大夏国」で、すなわち月氏=秦。となると、「殷」はサカ族なのでしょうか。
中国最古の王朝「殷」
⚫︎殷王朝とは?
中国最古の王朝である「殷」はシュメールの影響も受けているエラム人も関わっている可能性がありますが、それらを裏付けるものは今のところありません。
唯一あるとしたら「鏡」です。
①カガミ:カガとしての鏡
(中略)
『鏡は蛇の目へびのめとの相似から蛇目カカメと呼ばれ、転訛して「カガミ」となったが、時代が移るにつれて、この「カガミ」は鏡を意味すると同時に、「蛇」そのものの意味ともなった。蛇の目は呪力に満ち、蛇そのものを象徴するに足るものとして古代人によって捉えられていたからである。そこで、蔓状の蛇を連想させる植物が「カガミ」と呼ばれることになる。
しかし、あるいは、「カガミ」と呼ばれる一連の蔓状植物は、その携帯が蛇の身体そのものに相似なので、そのために、「蛇神(カガミ)」といわれるようになったとも考えられる。』(中略)
③鏡伝来の流れ
鏡はそもそも、中国から朝鮮経緯で入ってきたと言われているが、日本では、呪術的側面を持っていたと言うことに着目して、呪術に関係しそうな出土鏡を追ってみた。
エジプトではすでに手鏡のように柄をつけていることから姿見の要素が多い。スーサは、どの要素を持っているかわかりませんでした。 他に示す分布図は、すべて呪術としての側面を持っています。
◎アナトリア → カラスク
カラスクはアンドロノヴォ文化に含まれるがその範囲は広い。
フョードロヴォ文化(紀元前15~12制紀頃)火葬と拝火の証拠が見つかっているとWIKIにはあるがイリメニ湖あたりのノブゴロゴであろうか?アナトリアのすぐ北にあるのでもちろん関連性は深いがカラスクと関係があるかは、不確定。
◎カラスク → 中国 殷
中国殷は多くの民族の寄せ集めの王朝であったためこの可能も十分ある。類似点を挙げる学者もいる。ただ 日本の多紐細文鏡の原点と言われる燕とつながるか河南省と遼寧省の間にの都市間に遺物が無いので関連が解らない。
◎アナトリア → スーサ → 燕 → 日本
私が考える経路は こういった感じです。アナトリアで最古と見られる鏡がゾロアスター(拝火教・?教)と関連性があった点・呪術との関連性です。中国で発見製造されているものは明らかに 姿見・化粧用呪術と言うよりお守り的な使われ方である。
今まで呪術としていたものが中国で姿見になりまた日本に入るまでに呪具に変わるとは考えにくい。
日本において 九州と 畿内に分布が分かれていることから朝鮮から九州。燕から畿内に入ったことも考えられる 燕が、紀元前1100~前222年と栄え 『山海経』海内北経 による 「倭は燕の属国であった」という一節からも 有力と考える。
海を経由して燕までいっていると仮説するのであればそれ以前に日本に来ていることも自然なことで 上記図のように 『私が思う経路』を足してみました。
③へび民族の鏡まとめ
本来ならシュメール民族・文化の中の鏡も見たかったのですが資料不足で不可能でした。
私がこの項で重要視していたのは へびを崇拝し、鏡をへびと同一視し巫女あるいはシャーマンのように本物の力(呪術)を持っていた民族が日本に入ってきたのではという事でした。
http://www.janonet123.com/index/07_hebitte/07_hebitte_migi.html
鏡伝来の図を見ると、エラムの首都であった「スーサ」を通っているのが分かります。
また、殷では生贄儀式が行われ、巫女(シャーマン)の存在は重要視されていました。それだけではなく、殷の国を建てたと言われているのは「伏犠」ですが、伏犠は半分蛇の体で描かれることがあります。
では、殷王朝とはどういった王朝だったのか見てみましょう。
殷(いん、拼音: 、殷代(いんだい、拼音: )とも。紀元前17世紀頃 – 紀元前1046年)は、古代中国の王朝である。文献には天乙が夏を滅ぼして建立したとされ、考古学的に実在が確認されている中国最古の王朝である。商(しょう、拼音: )、商朝、殷商とも呼ばれる。紀元前11世紀に帝辛の代に周によって滅ぼされた(殷周革命)
出典:wikipedia
殷は、紀元前1700年〜1046年間成立した王朝です。(シュメールが没落したのは紀元前2000年頃→イシン・ラルサ時代)※殷=イシンであるという説もあります。
「殷」の前には「夏」王朝があったとされますが、実在が確認できる中国最古の王朝は「殷」のようでです。
「殷」で有名なのは、甲骨文字ですね。漢字の発祥がここにあると言われています。
なぜ甲骨文字と呼ぶかといえば、亀の甲羅に文字を書いていたからでした。なぜ亀の甲羅なのかというと、亀の甲羅で吉凶を占っていたからなのです。
亀はマラッカ海峡の亀を使っていたそう。しかしマラッカ海峡は、殷墟ともだいぶ離れています。
ちなみにマラッカ海峡には7世紀、多くの港町国家をしたがえる交易帝国となった「シュリーヴィジャヤ王国」も誕生します。この王国は「マレー族」が建てたと言われています。
また、漢字の成り立ちを知ると、殷が実に残酷な国だったかが分かります。
殷の戦争は呪力と呪力の戦いでした。
戦いには「媚」と呼ばれる巫女を伴いました。巫女たちは軍鼓を打ち鳴らし敵に向かって呪詛を唱え攻撃しました。甲骨文字には鬼方と呼ばれる強大な異民族を攻撃したときの様子が記されており、動員兵力数万人のうち投入された「媚」は3千人に達したと書かれています。
敵の「媚」を捕らえることは最大級の功績で「蔑暦」と呼ばれたと記されています。敵の「媚」は呪力を封じるために真っ先に殺されました。また異民族の地を進軍するときは道を整備し、土地かけられた呪詛や悪霊を祓うために異民族の生首をかかげました。祓除を終えたところを「道」と呼び表しました。
甲骨文字は祭祀の過程において発生したもので天意を記すために作られたものです。ごく一部の限られた階層のものだけが読める神聖文字で一般の生活とは無関係でした。
「媚」に含まれる眉の文字は顔料で眼の回りをくまどりし呪術的な化粧を施した象形であり、後世に転じて「媚びる」となりました。
「蔑暦」の「蔑」は「媚」を戈(ほこ)にかけて殺す形で「蔑む」などの語源となりました。
「道」に首の文字が含まれているのは祓うために首をかかげたことによります。https://www.cromagnon.net/yin-dynasty/
それだけではありません。殷では残酷な生贄儀式が行われていました。
ちなみに縄文人は、南米アメリカのインカ文明を興しました。これは確実で、ネットではかなり言われていることです。
マヤ・アステカ・インカ文明で行われた残酷な生贄儀式が、すべて日本に起源があるという明確な証拠。
これらのことからも、縄文人は大変高度な航海技術を持っていたことが分かります。
インカ文明でもまた残酷な生贄儀式が行われていましたが、殷におけるこの生贄儀式もまた縄文人由来のものなのでしょう。縄文人=殷人を裏付けています。
ただの原始的な縄文人の姿はもはやなく、賢く野蛮な縄文人の姿が目に浮かんできますね。
4 生贄制度
殷王朝では、祭祀に多数の人間を生贄として捧げる神事が執り行われた。生贄とされる人はチベット系遊牧民の羌族が多く、人狩りによって捕獲され、祭祀の時に神へ捧げられた。全ての生贄は意図的に頭が切り落とされている。甲骨文字の記録によると一度の祭祀でその数が650人に達したこともあったらしい。これまでの発掘で確認された生贄の数は1万4,000体に及ぶ。https://plaza.rakuten.co.jp/kodaisi/diary/201409130001/
また、「巫女」がでてきましたが、殷の宗教はシュメールや日本の神道にも通じるものがあります。
殷において酒は神と交歓するのに重要なものでした。卜占に際し、火を焚き、青銅器に酒を満たし、肉を供えて神や祖霊を迎え、飲酒によって一種のトランス状態に落ちることで神の神託を聞きました。
日本における昔から続いている神社の淫乱騒ぎについては今までにもお伝えした通りです。
スピリチュアルの嘘①!日本のスピリチュアルブームの裏側とは。
漢字は「巫女」由来のものが結構あるようです。(画像はこちらから)
殷という国において、いかに巫女が重要な役割を果たしていたのかが分かります。
また、「殷」の名は蔑称でした。「殷」を滅ぼした「周」から呼ばれてたからとも言われているし、あるいは「殷」は周囲の住民から忌み嫌われてつけられた名前だとも言われています。
「殷」は「商」を自称していました。これが「商人」の由来にもなっているようです。エラム人は〔悪どい商人〕だったらしいですが、ここでも繋がりが見えます。
「殷」を建国した民族が、民から忌み嫌われていた理由ですが、それは彼らが異国人であり、なによりも野蛮な民族だったからなのかもしれません。
彼らはどのような民族だったのでしょうか。さらに「殷」を建国した民族について見ていきましょう。
⚫︎殷を建国した「東夷」
まずはじめに、古代の中国大陸では「四夷」と呼ばれる異国人の集団がありました。
「四夷」とは「東夷(とうい)・西戎(せいじゅう)・南蛮・北狄(ほくてき)」の4つを指す言葉です。
「四夷」という言葉自体に、“東西南北に住む野蛮人”という蔑称が込められており、実際、彼らは気性が荒く、野蛮だったようです。
この四夷のうちのひとつである「東夷」が「殷」を建てたと考えられています。
※とはいえ諸説あり、確かなことではありません。殷は北狄が建てたという人もいます。しかしここでは「東夷」としておきます。
※東夷=商人(=殷人)は、「商人」の由来になるほどですから商売にも長けていました。通過の売買が確立したのも、殷の時代でした。商王朝が滅んだ後は、商の民は“商売”で生きながらえたのだそう。
また「東夷」はさらに、「九夷」にわけられる説があります。
九夷の原点は、前20世紀、東アジアの中国に突如として姿を現した、9つの部族からなる異国人の集団にあります。九夷については畎夷・于夷・方夷・黄夷・白夷・赤夷・玄夷・風夷・陽夷と9部族の名前が具体的に挙げられるも、抽象的な名称しか用いられていないことから、その実在は疑う声もあがっているようです。しかしながら夏王朝と同時期、西アジアで勢力を持ちはじめたイスラエル12部族も、年の月や、個別の色に結びついてそれぞれの部族がシンボル化されていました。ナフタリ族は1月の緑、ヨセフ族は2月の白、ベンジャミン族は3月の黒、ルベン族は4月の銀、シメオン族は5月の金、レビ族は6月の紫、ユダ族は7月の茶、イッサカルは8月の黄、ゼブルン族は9月の桃、ダン族は10月の青、アシェル族は11月の赤、ガド族は12月の灰と、各部族には年の月と色が割り当てられていたのです。つまり、古代社会において抽象的な名称が使用されることに何ら不思議はなく、むしろ九夷が、黄、白、赤という同じ色彩のアイデンティティーをイスラエルと共有していることに、九夷とイスラエルの関連性を垣間見ることができます。http://www.historyjp.com/article.asp?kiji=91
では【イスラエル民族=九夷=東夷=殷人】なのでしょうか。しかし、引用文にもある通り「九夷」の存在を疑う声もあります。
わたしは殷は「九夷」による王朝だと考えていましたが、どうやら違うようです。九夷の存在はあったのかもしれませんが、殷とは関係ないと思われます。
まず、ユダヤ民族=シュメール民族ではありません。彼らの拝む神が正反対の位置にあります。ユダヤ民族は悪魔崇拝を忌み嫌い、シュメール民族は悪魔崇拝を徹底しています。
そして殷王朝の最後の王である「紂王」は酒池肉林のことわざの源であるほど堕落した王で、これはどう考えてもユダヤ10支族ではありません。
とりあえず、「東夷」はどんな民族だったのでしょう。
「東夷」はすなわち「恵比寿=エビス」で、エミシです。野蛮な異民族という意味です。
日本には「エビス王朝」があったとされています。エビス=東表国=豊日国=金官加羅国、なのだそうです。
すなわち「東夷」はこのエビスを指していると考えられます。
以下、こちらから転載。
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日本最古の王朝は、中原の歴史で「殷王朝」と称され、九州北東部一帯を拠点に伽耶や琉球、南九州、根の国(島根)、長門、周防、阿波、山代や難波、紀伊、葛城、三輪、飛鳥、伊勢、尾張、扶桑(関東)など、多くの分国を次々と建設していった「蘇我氏」や「中臣氏」の東表国(豊国)でした。※中国最古の王朝「殷」は、日本最古の王朝でもあり、すなわち「蘇我氏・中臣氏」は中原にある「殷」を、九州にある「東表国」の分国として運営していたということ。
以下、この東表国と各時代の様々な移入氏族との関わり合いを中心に、この列島と半島の古代の成り行きを記述してみようと思います。〔省略〕
次は阿波。聖書では、イザヤをはじめとするレビの一団が紀元前711年生まれのユダ王国王子を連れてユダ王国を捨て、ユダ王国から大挙して脱出したということが暗示されています。彼等はその後、海人族和爾氏の導きで海のシルクロードを経由して列島に招き入れられたようです。東表国の「中臣氏」がその招き入れの主であり、その際は彼らに、分国阿波を割り当てたらしい。〔省略〕そのくらい、このレビ族(忌部氏)の存在は重かったということなのでしょう。
東表国の中臣氏は、更に、秦から徐福の一団が二波に分かれて移動して来た時にも、先着組には丹波亀岡の出雲を、後着組には北九州の行橋辺りを割り当て、前者が後に北陸、東北勢力と共に半島北部に高句麗を建国した際には、その手助けをしました。これら徐福の一団こそ物部氏であり、それらの首長が大国主なのです。大国主は丹波出雲の大国主だけではなく、北九州の大国主もいたということになります。〔省略〕
これら一連の動きの最終的な結果は、次のようなもの。即ち、現在「近畿」と呼ばれている地域に秦氏の秦王国、三輪に三輪氏(イッサカル族)、伊勢や紀伊にはガド族がそれぞれの拠点を確保する(秦氏に「近畿」進出で再度駆逐された)というものでした。これが、崇神天皇=百済近尚古王及び卑弥呼の時代における九州の邪馬臺国勢力の「近畿」進出と大邪馬臺建国へと至る直前の状況となっていたのでした。
因みに「神武天皇」(実際は崇神天皇=百済近尚古王)を九州から「近畿」へと道案内した海部氏とは、この中臣氏の王族の一派に与えられた別称です。中臣氏は、圧迫される以前は邪馬臺国勢力すら、列島内に歓迎する動きを見せていたということになる訳です。
註:海部氏と尾張氏は同族で、崇神天皇による丹波と尾張の侵略が成った際、崇神天皇によって現地統治者としてそれぞれ丹波と尾張に派遣されたのがその由来のようです。海部氏の起源は最も奥まで探れば丹波の籠神社となるというわけではないのです。九州北東部の東表国王家が列島内におけるその起源だからです。彼等が列島最古の家系であるというのはまさに、この意味において以外の何物でもありません。
註:今述べた秦王国の首長も大国主です(要するに「大国主」とは中原の秦に由来する部族の長に着けられる呼称だったのです)。〔省略〕ということは、国譲りとは結局は即ち、ウラルトゥ王家にバクトリア王家が、或いは趙王家に秦王家が、この列島内で国譲りしたことを意味することになります。それを象徴するのが、山陰出雲大社のスサノオ及び大国主と、伊勢内宮の天照大神の対比構造です。内宮天照大神(ウラルトゥ王家=百済王家の神)の側に、その食事の世話をするよう義務付けられていると言う外宮豊受大神(東表国=豊国の神)と、伊雑宮(=イザヤの宮)が配置されていることもまた、大邪馬臺建国の構図に対応していて非常に興味深い感じがします。〔省略〕
次は半島。伽耶或いは加羅(狗邪韓国)は、金氏の王国という意味で中原の歴史書には金官伽耶として出てくる王国です。この地域を最初に統一した王として韓国の歴史書に登場してくる金首露(キムスロ)はまさに、東表国王海部知男命(あまべしるおのみこと)のことなのだそうです(首露と知男の音韻の共通性に注目)。この王の妃は、インドのアユダ国から商売で極東にまで出向いてきていた、江南に定着している一族として中原の歴史書にも記述がある、許氏の王女許黄玉(ホファンオク)でした(日本最古の王朝東表国が中東やインド、東南アジアに渡る非常に広い領域で活動していた海人勢力の東洋部門だったことをよく示すエピソードです)。〔省略〕
中原の戦国時代に趙国として栄えていた王朝は、秦によって中原を追われた後、半島の奇子朝鮮国(韓氏)と合併します。両者共にフェニキア人が東洋に建設した国だったからです。その後は更に、共に満州に移って扶余国を、次に、遠い同族であり、当時は丁度当地に拠点を構えていた、丹波出雲の徐福の一団の末裔=物部軍団とも合併し、九州熊本や半島南西部の馬韓に移動して百済(旧多羅)国を、最後は、北九州で南九州公孫氏(イッサカル族)の安羅国と婚姻関係を結んで、百済国をもその一部とする邪馬臺国を、それぞれ建国したウラルトゥ人の王国でした。この王国は列島最古の王朝である東表国建国と同時代に中東に覇権を打ち立てていた、東表国と同族の王国でした。にも拘らず、中東を追われ、東洋に移動し、この列島に至った際には、この東表国にそれ程の敬意を示さず、北九州の拠点から彼らを駆逐してしまいます。結果、蘇我や中臣は半島では伽耶で、或いは後には新羅で、金氏として歴史書に現れることになり、列島に残った者達は、分国から分国へと移動して各地に拠点を持つと共に、最後には関東の扶桑国にも大きな拠点を持つようになったという訳です。この列島に残された中臣の王国が、魏志倭人伝では、邪馬臺国と常に対立し合う「狗奴国」として登場することになるのです。この「狗奴国」は、列島内では邪馬臺国に圧迫されているとは言え、中東やインド、東南アジア、江南、琉球などの所謂海のシルクロードを管理する大きな海人勢力の極東での拠点管轄者の王国に当たる訳ですから、列島内でどんなに邪馬臺国に圧迫されようと、その活力そのものを失うことはなかったのです。〔中略〕
https://blog.goo.ne.jp/sophia_h/e/20e0800359836d63b131c7899be6f875
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日本の氏家が複数登場してきて、更にややこしい内容です。そしてこれは事実なのでしょうか?
ですが、「殷」と「東表国」のつながりは濃いようです。
「東表国」といえば「蘇我氏」ですが、
「蘇我氏」=「サカ族」であり、やはり「殷」はサカ族の国とも言えるのです。
また、前回「李家が天皇の座を乗っ取った」と表現しましたが、「同族が受け入れた」という解釈のほうが正しいのかもしれません。
太古から日本の由緒ある氏家は「レビ族」重んじて受け入れ土地を分配していたとなると、日本の天皇家が明治維新を機にレビ族の「李家」を重んじて受け入れたのも十分に納得いきます。秦の始皇帝の父「呂不韋」もまたレビ族で、だからこそ日本に来たのかもしれません。
いずれにしろ、メソポタミア由来の日本の古代王朝とも深く関係してくるようですね。
次回は、古代日本編です。
※追記:次の記事で「殷王朝=サカ族」は「夏王朝・殷王朝=ともにサカ族」に訂正します。正確に言うと「夏王朝」の始祖である「禹」は「道教」の始祖でもある「黄帝」の子孫ともいわれています。「道教」は出雲族で、サカ族と同じです。また、「夏・殷」ともに、始祖と最後の王がまるで違い、「禹」は聖人といわれる一方、最後の王は悪漢ゆえに、夏王朝の始祖「湯」が立ち上がることで滅ぼされています。「匈奴」は「夏后」を始祖とするそうですが、「匈奴」もまたチュルク族であるので出雲族になります。「匈奴」にはサカ族出身の人間も多くいたようでした。これらのことを踏まえても、「夏王朝・殷王朝」はどちらも出雲であるサカ族が関わっていると考えられます。