繊細なHSPのひとが、怒られたダメージを最小限にするための方法。

繊細な人であれば誰でも、自分の繊細さに嫌気が指すことがあることでしょう。そういう繊細な人のことをHSPと呼ぶらしいですが、繊細な感受性はこの廃れかけた世の中では貴重であることをまずは知ってください。

繊細だからこそ感じ取れるものがあります。

それを無視して鈍感になろうとする必要はまったくありません。

では一体、どうすれば繊細な心を持ちながら荒波のようなこの世の中を生き抜けるのか。

その鍵は「知る」ことにあります。

まずは自分をよく知ろうとすることです。

例に漏れず繊細な人というのは嫌になるほど自己分析しているものですが、その自己分析もままならず自分も他人も“正しく”見れていないことがあります。

「じゃあこれを書いてるお前は正しく自己分析して精神を強くできてるのか」なんて手厳しいことを言ってくるひともいるかもしれません。

でも、そんなことより成長段階にいることが先立って重要です。「前よりも強くなれた」と思えることが大切です。

「前よりも強くなれた」という小さな勝利の積み重ねがさらにその精神の強度をあげているのです。

ということで繊細な人の特徴とあわせながら繊細でありながら強くなるための方法をご紹介します。

また、わたしは専門家というわけではなく経験で言っているので信憑性はないかもしれませんが、自分で体験して変えることができた実際にした方法を書いていきます。

怒られたときのダメージを最小限にするためには

怒られたときのHSPの心理状況

ちょっとした注意にも敏感に反応して落ち込んでしまうのは繊細な人の特徴といえますが、なぜそうすぐ落ち込んでしまうのでしょうか。まずはそれを説明していきます。

「ちょっとした注意にも敏感に反応して落ち込んでしまう繊細な人」の脳の中はどうなっているのでしょう。

注意されているまさにその場面では、繊細な人の脳は「注意してきた相手」に意識が向いているというよりは「注意されている自分」に向いています。

それ以外にも自分で自分を責める自分がいます。それを恥ずかしく思う自分もいます。これを言ってきた相手に嫌われているかもしれないと思う自分もいます。ありとあらゆることを思い悩む自分がたくさんいるのです。

だから脳には「注意されている自分」に関する情報の方がたくさん入ってきてしまうんですね。

そして、その情報の隙間から注意されたことの内容が流れ込んでくるわけですから、言った言葉をひとつ残らず全て真に受けてしまいます。たとえそれが注意とは関係ない超個人的な怒りによるものであっても。

少なからず人の言動には感情が混じるものですが、その感情に含まれている怒りだとか憎しみだとかの激しさに対して繊細な人は敏感に反応してしまいます。

その激しさのダメージで動けなくなっているようなものです。

たとえるなら、このような感じです。

きょうに限ってその注意してきた相手は朝大ゲンカしてから仕事に来たところでした。だから怒りの感情がいつもより増していました。それでそのひとはとても血の気の多い人でした。でも繊細な人は「今」言われていることに集中して、全て真に受けてしまっている。だから相手がなぜ機嫌が悪いのかなんてことを瞬時に考えられない。そのため、相手がこれほどまでに怒っているのはすべて自分のせいだと思ってしまう。

あとから考えたらそれは八つ当たりだったと分かっても言われているときのダメージは既に受けてしまっているのでどうしようもありません。つぎから対処しようとしても繊細ゆえ、その度にダメージを喰らってしまうというわけです。

つまり、相手の分析まではできていません。

怒られたときのHSPは、相手と自分の感情とその化学反応でいっぱいいっぱいになっている状態なのです。

「繊細だから共感能力が高い」の誤解

繊細であれば人への共感能力が高い、と通り一遍に考えがちですが実はそうでもありません。

さきほど相手の分析はできていないと書きましたが、なぜよく気付くことはできるのに分析することはできないのか。

それは相手と自分との境界線をうまく引けていないからです。

相手に共感して「まったくその通りだ」と思い、相手と通じ合ったような状態になるという意味では共感力があるといえます。

しかしそれは、共感力というよりは純粋さゆえという感じな気がします。

純粋さゆえに同調しているだけです。

また人の気持ちによく気付くことはできても、適切な行動や対処ができているかといえばまた別の話です。

人や自分に対して気付くことはできても、行動して対処できていることは少ないのではないでしょうか。

そのため、繊細さが長所ではなく短所として現れてしまいがちです。

もしちゃんと共感能力が高かったら、怒鳴っている人の気持ちもよく察することができるので、もっとしっかりその心情を理解し対処できるはずではないでしょうか。

なぜ今日は機嫌が悪いのか、それらをよく観察し、相手に集中することができるはずです。

だから共感能力が高いとは一概に言えません。

自分が怒鳴られたことをくよくよ考えすぎることもないでしょう。くよくよ悩むこともないので「次は気をつけよう」だけで済むはずなのです。

だから「繊細な人=共感能力が高い」のではなく、「繊細な人=よく考える人」だとわたしは思います。

相手の気持ちに同調するのも相手を考えることができているからだし、仕事が丁寧なのもよく考えているからです。

でも怒られるとそのダメージで考えられなくなるのです。

そうやって相手のことも自分のこともよく考えることができるのは良心ゆえです。

繊細な人の仕事はきめ細かい。でも精神的な状況も仕事に大きな影響を与えるので、調子の悪い時はミスが多くなり怒られてしまうのです。

もうすこし共感能力が高い人について考えてみます。

自分で思っているより、あなたは頭が良いことを示す13のサイン

10.他人の考えや感情に敏感だ

賢い人たちは「相手が考えていること、感じていることを自分のことのように感じとる」ことができると、あるQuoraユーザーは書いている。

一部の心理学者たちは、相手のニーズや感情に寄り添い、そうしたニーズに対して思いやりのある行動が取れる「共感力」は、心の知能(EQ)の核となる要素だと考えている。EQの高い人は、初めて会った人と話し、彼らについて知ることに非常に関心が高い。

EQとは感情指数のことですが、EQは共感能力とも関連しており、それが思いやりのある行動につながるものです。

だから、ただ繊細で相手の気持ちに同調できているだけで共感能力が高いとはいえません。ニーズに沿った思いやりのある行動を取ることができていないからです。

共感力には、相手の感情や自分の感情をしっかりと認識する能力も必要になり、言い換えればEQが必要です。

繊細なのにそれが生かされていない人はEQが低いと考えるべきでしょう。

ダメージを最小限にするためにはEQを高める

ではどうすれば繊細な人は怒鳴られて狼狽えることなくダメージを回避することができるのでしょうか。

そのためにはやはりEQを高めることが大事だと思います。

そのEQを高めるたの第一歩として、他人との「境界線」をしっかりと認識することです。

ではどのようにしてその「境界線」とやらを認識できるのでしょう。

そのためには一旦、人間関係における「境界線」を掴む感覚が必要です。

あなたの問題のある人間関係をひとつでもいいので解決できれば、自分の境界線を保ち続けることができます。

境界線がごちゃごちゃになった人間関係においては、ひとまず「時間」が必要です。時間を置くことで感情的に整理がつきます。

自分の感情が整理できても、相手が変わることはありません。しかし、ひとつひとつ自分の感情と相手の感情を切り離して整理していくことで、状況を理性的に考え明確にし、自分の考えや感情を相手に伝えていくことで「境界線」を引いていくことができます。

考えるばかりではなく行動することが重要です。

行動しようと気張らなくてもできるくらいが理想だと思います。

さらにEQについて書くなら、

http://psychologicaleffect.hatenablog.com/entry/2017/12/11/IQも大事だけど、EQ%28EI%29を高めよう!

EQEmotional Intelligence(EI) Quotient=感情知能指数

専門的にはEIと表記することが正しい

自分の気持ちをコントロールしたり、他人を思いやり、気配りできる能力を言います。

EI4つの能力

感情の知覚:自分自身や他者(小説なども含む)がどのような感情を抱いているのか、適切に把握する能力のことです。

感情の理解:なんで怒っているんだろう?など感情が生じた原因を推測する能力のことです。

感情の制御:自分の感情を冷静に捉え、感情に呑まれることなく行動するための能力です。

感情を利用した思考:感情をうまく利用することにより、問題解決や創造的思考に役立てる能力のことです。

EIの能力を高めるには、日々の中で自分や他者の抱く感情やその原因を推測するということが習慣化することが大事だとは思います。

やはり考える習慣を身につけることで、日常的にEQは高められるのだと思います。

では実際に怒鳴られてしまった場合の対応はどうすべきでしょうか。

バイト先や職場などの場合

怒鳴られるまでいかなくても、怒られた経験はあると思います。

しかし、決して怒鳴る側ばかり悪いのではありません。

わたしはここを勘違いしていました。

相手がどんな理由で、またどんな心情で言ってきているのか理解する必要があります。

厳しい人と、ただの人格障害の人がいます。

厳しい人で神経質な人でも、こちらがちゃんと相手に集中して、決して自分ができなかったことに落ち込むことなく、誠実に適切な対応ができるようになればむしろ相手に好かれるでしょう。

そのような人から怒鳴られても、次から気をつけるようにして、相手に集中するようにすれば問題ありません。

しかし人格障害の人がいるのも事実で、そのような人は傲慢で他人を見下し、叱るのではなく悪意をもって相手を罵倒するのです。

そのような人は無視するしかないと思います。異動されるのを願いましょう…。

わたしの場合

わたしの場合は、母親と境界線を引けていない共依存の関係にありました。

なので怒られたとき大抵は理不尽な言いがかりだと分からず、真に受けるばかりでいました。

まずしたことは距離を置いてみることです。



時間をおけばある程度は自分の精神状態が落ち着きます。

そして母親に何か言われたとき、その言動には母親自身の個人的な「怒り」や「憎しみ」が含まれているのであり、わたしが責任を感じることではないのだとはっきり理解しました。

相手の方が正しいことを言っている場合もあることでしょう。

ですが、あなたを傷つけるようなことを言ったり、ばかみたいに怒りをぶつけたりすることは間違いなく相手の過ちであるということです。

愛する我が子に悪意を向けるはずがないと信じてばかりいてはダメです。これは悪意である、と切り離しましょう。

相手は怒りのあまりにあなたを憎み、そのいっときの憎しみで“悪意のある言葉”をあなたに浴びせ、傷つけているのです。

このとき、一緒になって相手を憎むばかりでは共依存関係からは抜け出せません。

激しく自分を責めることなく、自分の過ちすらも客観的に認めることが大事です。

このようにして線引きをちゃんとできるようになれば、より自分も相手も客観視できるようになり、共依存関係から抜け出す第一歩となることでしょう。

それでもやっぱり親との言い争いは避けられないことがあると思います。そういうとき心がかき乱されてしまいますが、感情を理解していくためには自分で自分の感情を整理し、考えることが大事です。何度もそうすることで次第にわかるようになります。わたしにはその場その場で自分の考えを恐れることなく言えるようになることが必要でした。母親はこうだからこうなっている、わたしはこうだからこうだ、だからそうやって言うことは間違っていると理性的に話すようにしました。

そして過度な要求を拒否しました。

自分もまた自分勝手な過度な要求をしないようにしました。

わたしもまた境界線を引けない人間だったから、共依存関係に陥っていました。だからわたし自身も変わる必要があったのです。

それでも、最終的には物理的に距離を置いてしまうことが解決策になります。なぜなら母親と再び良好な関係を築きたいならば、母親自身も変わる必要があるからです。母親の干渉してしまう癖やわがままで傲慢に要求する癖を修正しなければ、ずっと干渉され続けます。

この関係が改善されたかといえば、結果的には改善しました。それは母親自身も変わってくれたからです。参考にこちらもどうぞ。About me

また、時間をかけ、距離をおくことについてはこのようにあります。

生活の中で自分の手に負えなくなってしまった部分は、境界線を引いてもう一度所有権を取り戻すことが必要です。人やプロジェクトからしばらく時間をとって離れることは、その一方法です。

霊的にも感情的にも自分の親から離れることのできなかったアダルトチルドレン(訳注:親がアルコール依存症であるなど、何らかの機能不全のある家庭で育った大人)の場合、時間をとって離れることが必要なことがよくあります。彼らはそれまで親との関係をずっと「抱擁し、保って」きました。抱擁するのをやめ、もはや年齢不相応となったつきあい方を手放すことを恐れてきたのです。彼らは少し時間をかけて古いやり方に戻らないように境界線を築き、新しい関係を生み出す必要があります。親たちはしばらくのあいだ疎外感を与えるかもしれませんが、このようにしばらく離れていることは、たいていの場合、両親との関係を改善します。

アダルトチルドレンもスピリチュアルで言われていることですが、これの理解については複雑です。ここでは触れないでおきます。わたし自身の考えとしては、アダルトチルドレンという言葉はあまり適切ではないと思います。積極的に使いたい言葉ではありません。

親子の関係は難しいですが、自分自身の境界線を引けるようになることがとても大事です。

親だけではありません。どんな場合にも応用が効くようになります。

さいごに

しかし、わたしの場合はただこうやって境界線を引けるようになっただけではなく、キリスト教の信仰を親子でもつようになったことが大きく関係しています。

人は愛を渇望して、それを必要以上に要求してしまうから関係がおかしくなってしまうのではないでしょうか。

だからやはり、神から愛という「聖霊」を受けることが必要です。それがもっとも人の精神を安定させる方法です。

シラフで生きていた生活が愛で満たされるようになるんですから当たり前ですね。

みんなシラフじゃ生きられないから、退屈でつらいばかりの毎日を酒やらタバコやらの嗜好品でごまかしているだけです。

愛で満たされる生活を送れるならそれらは全て必要なくなってしまいます。

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