今から2200年前のこと。
中国の「秦」に徐福という人物がいました。
“徐福伝説”は、史実としてはっきりと認められているわけではありません。その証拠として、わたしたち日本人の歴史の教科書には載ってませんよね。
しかし、“徐福の実在”は〈ほぼ〉認められているようです。
その根拠が「徐福村」であり、そこには徐福の子孫を名乗る人々もいるのだとか。
また、徐福については、司馬遷による史記にその記述があり、始皇帝との出会いだとか、徐福が不老不死の妙薬を求めて日本にはるばるやってきたことだとかが書かれています。
徐福が日本にやってきたこと自体、トンデモの部類に入ってしまうわけですが、徐福伝説は九州だけではなく、列島全体に伝説として言い伝えられています。
史記によれば、徐福は童男童女数千人をつれて日本にやってきて王となったそうですが列島全体に広まるくらいですから、やはり日本でもそれ相応の活躍をした人物であったのではないでしょうか。
今回は徐福について徹底的に考察してみました。
驚きの事実も発覚しましたので、ぜひ最後までご覧ください!
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徐福の人物像
徐福は方士と呼ばれる術師だった。
徐福は、またの名を徐巿(じょふつ)と言います。
ちなみに、この徐巿の巿の字ですが、これは基本的に巿(ハイ)と読み、市(イチ)ではありません。よく見ると、巿は真ん中の縦棒が貫いており、市(イチ)は5画でも巿(フツ)は4画です。
その徐福はというと、その当時「方士」と呼ばれる術師のひとりでした。
「方士」は、錬金術に長け、医術も施し、天文学や航海術にも通じており、それだけでなく宗教面の指導者のような面を持ち合わせていました。なんとなくドルイドにも似ているように思います。
方士とは、紀元前3世紀から西暦5世紀にかけての中国において、瞑想、気功、錬丹術、静坐などの方術によって不老長寿、屍解(羽化)を成し遂げようとした修行者である。神仙を目指した神仙方士のほか政府に仕官する方士もいたが[1]、道教の成立と共に道士と呼ばれるようになった。
異術を修め、鬼神に通じ、死生の解脱の道を知ろうとした。古代中国医学、化学、天文学、軍事を発展させた。神怪小説において様々な活躍を行い、人々を苦しみから解放するため、医術を用い、侠客を導き、社会貢献を行った。また一部の方士は自らの利益のために、他人をだまし、社会を混乱させた。
出典:Wikipedia
道教は、道家とは若干ことなるようですが、神仙思想が根源にあり、基本的に現時点では老子を始祖とする道家の一派だとみなされているようです。
方士は特別、政治的権力者とも近い立場をとれる存在だったようで、ある意味では黒幕だったかもしれませんね。
Wikipediaによれば、彼ら方士たちは神仙(不老不死・長寿)を目指すためにあらゆる祭祀、占い、医術、錬丹術などの神仙方術を行い“福を招き入れる”儀式を行うだけでなく、科学技術者でもありました。
徐福の出身地は「斉」国。
徐福の出身は「斉」国でした。
その記述があるのが史記で、「徐福または徐市(じょふつ)は斉(せい) の国琅邪(ろうや)の人なり。」と記されています。
斉は紀元前1046年から紀元前386年まで続いた国でした。
斉の16代君主である桓公は、周王朝から「覇者」の尊称を得ました。
桓公は「春秋の五覇」のひとりでもあり、五覇とは五行説に従って五人をあげたとも言われています。
また、この五人は文献によって異なるようで、五帝と同じく定かではないようです。
しかし、斉・晋・楚・呉・越のこの組み合わせは偶然ではないように思います。つまり、東夷だったんじゃないかと言いたいわけです。東夷との関連は後述しています。
五覇のうち、先の二者の斉の桓公と晋の文公はいずれも周王を倒すことは考えず、あくまで周王をたて、「尊王攘夷」(周王を尊び、異民族を打ち払って中原を安定させること)を実現することを目指していた。ところが、注目すべきことに、楚・呉・越という、それまでの中国史の中心であった黄河流域ではない、長江流域(江南)の勢力が五覇に加えられていることである。その最初が楚の荘王で、彼は前597年に邲(ヒツ、現河南省鄭県東)の戦いで晋の軍を破り、中原の諸侯を従えた。しかし荘王は斉の桓公や晋の文公のばあいのように諸侯をあつめて会盟を行い周王室を中心とした秩序を維持しようとするようなことはしなかった。その理由は、中原諸侯の精神的紐帯になっていた周王室が名実ともにその存在意義を失っていたことが考えられる。<貝塚茂樹・伊藤道治『古代中国』2000 講談社学術文庫 p.319-320>
斉や晋は『周王をたてる思想を持っていた』とのことで、そこに楚だとか呉越が加えられたとあります。
ちなみに、「呉越同舟」という四字熟語がありますが、これは仲の悪いもの同士でも利害が一致すれば協力し合うことのたとえです。
戦争は一番の金儲けともいいますが、もしかすればそういった争いは全て茶番で、裏では誰かがごっそり金を頂戴していたのかもしれないし、あるいは壮大な実験だったのかもしれません。╮(︶﹏︶”)╭
まあこれは妄想としか言いようがない推論ですが(笑)
話は戻り、徐福は「斉」出身で家柄はかなりの名門だとありました。
というのも徐福は「徐王」の子孫で、淮河や長江あたりで栄えた中国屈指の名門なのだそうです。
その「徐」国について、Wikipediaには以下のようにありました。
徐(じょ 紀元前20世紀頃 – 紀元前512年)は夏代から春秋時代にかけて中国に存在した東夷諸国の一つ。徐戎や徐夷、徐方とも称される。
夏代から周代にかけては現在の山東省郯城に位置していた。周初に安徽省泗県、江蘇省泗洪県一帯を中心とした。東夷諸国の中で強大な勢力を誇ったが、春秋時代に楚による攻勢を受け、紀元前512年に呉により滅ぼされた。
出典:Wikipedia
徐は東夷諸国、だったのですね。
呉越の人々は日本にやってきた渡来人ですが、彼らは東夷でもありました。中国の古代王朝なども東夷が建てたと個人的に考えています。くわしくは以下を。
倭人の正体とは?倭人と姫氏と東夷とユダヤ人のつながり。【古代シュメール国家の行方④】
徐福と始皇帝との出会い。
画像参照元:Wikipedia
“不老長寿”とは読んで字のごとく「老いることなく生きながらえる」ことである。古代中国には“不老不死”を求めた神仙の方術「仙術」があるが、元来頑健でなかった秦の始皇帝はこの「仙術」を用いる“方士”を身近においていたといわれる。現代風に言えば“老化せずにいつまでも若々しく”ありたいという願望が強かったのだろう。
https://blog.goo.ne.jp/inemotoyama/e/0829252ee49ba4ccd41fdb6c92ae69fe
始皇帝自身がかなりスピリチュアル志向の強い人物でした。
だからこそ、方士である徐福を重用したのでしょう。
しかし始皇帝は、なぜ徐福でなければならなかったのでしょうか。他にも方士はたくさんいたはずです。
その理由のひとつに、始皇帝と徐福との共通点が関係しているかもしれません。
それは、羌という民族です。
殷や周の時代に羌民族がいました。殷の奴隷だったそうですが、殷の臣下だった羌出身の呂尚が周に仕え殷を滅ぼし、山東にある斉に封じられたそうです。
また、前回の記事でお伝えした、三星堆遺跡をのこした古蜀人の末裔だと考えられている「イ族」もこの羌族の末裔です。(参照:Wikipedia)
羌族とはいわゆる「チベット民族」に分類される民族でもあります。そして、黄帝や炎帝も関係してくるようです。
つまり、黄帝と炎帝は兄弟で(一説には異母兄弟)、2人とも間違いなくチャン族部落の人である。これは、なぜ古字の「羌」と「姜」が同じ文字であるかを説明している。ここから今日我々がいう炎黄子孫は、実はチャン人の末裔であると分かる。
『史記・六国年表』には「禹は西羌に興る」とあり、また『孟子・離婁下』には「文王は歧周に生まれ、畢郢で没す、西夷の人である」とある。西夷は間違いなく西羌のことである。そこで歴史学者の翦伯賛氏は「炎帝の姓は姜……西戎チャン族の一系統で、西から遊牧して先に中部に入る」という。彼は秦人の源を論証して、秦は東遷したチャン人と中原の人の末裔であると説く。「秦の祖先は戎である」という言い方もここから来ている。
http://japanese.china.org.cn/jp/txt/2009-11/19/content_18917565.htm
このように、徐福のいた「斉」も、「秦」も、羌族が関わっている可能性があるわけです。
とはいえ、正直なところ黄帝や炎帝は実在しない伝説上の人物だとされているし、ここらへんは諸説あり具体的なことを述べることはできません。
しかし、黄帝と炎帝が実は兄弟だったとか、同盟を結んでいたとか、そういった話は結構みられ、同族であったと考えていいと思います。
それらがおおまかに“夷”だったのではないでしょうか。
即ち、黄帝の姫氏も、炎帝の姜性も、のちに東夷や、あるいは西夷などになっていくつも王朝を立ち上げ同族で争い合っていたと考察できます。
あらゆる系統の中国大陸にいた民族が吸い上げられ、名付けられたのが「漢民族」だったのでしょう。
だから、「漢民族」のいう『黄帝の子孫は中国人、炎帝の子孫は日本人』はお角違いもいいところで、どちらかというと日本人が東夷だとかの血を多く受け継いでおり、漢民族はそれが薄められた人種なのだと思います。
というより、日本人には古代の縄文人の独自に進化した遺伝子があるようなので、日本人は東夷と、列島に住み着いていた縄文人の血が流れているのでしょう。
実際、漢民族は蒙古斑が出にくいのだそうです。一方で、少数民族には蒙古斑が見られる民族が多々あります。
また、韓国人は日本以上に蒙古斑が見られるとのことですが、これは何を意味しているのでしょう。
これについて説明すると長くなってしまうので、とりあえずは保留して、また別の機会に記事にしたいと思います。
徐福伝説の考察
徐福による宮下文書と、富士王朝。
残念ながら偽書認定されている「宮下文書」ですが、これは徐福とその子孫が書き残したものであるといわれています。
宮下文書(みやしたもんじょ)とは、富士山の北麓、山梨県富士吉田市大明見(旧南都留郡明見村)の北東本宮小室浅間神社(旧称阿曽谷宮守神社)、宮下家に伝来する古記録・古文書の総称。「富士古文書」「富士古文献」などとも称される。神武天皇が現れるはるか以前の超古代、富士山麓に勃興したとされる「富士高天原王朝」に関する伝承を含み、その中核部分は中国・秦から渡来した徐福が筆録したと伝えられている。だが、その信憑性については疑いがもたれており、いわゆる古史古伝の代表例に挙げられる。
出典:Wikipedia
このように「宮下文書」には、「富士王朝」の記述があります。
同じく偽書認定されている古史古伝に「竹内文書」がありますが、この「竹内文書」を書いたのは「竹内宿禰」でした。
その竹内宿禰と徐福はなんと、同じ年代の人間とのことです。
◆武内宿禰が、徐福の来朝を聞いて喜び、富士山本宮七廟惣名・阿祖山大神宮に挨拶にやってきて、のちに熱心な「徐福学」の信奉者となった。
(この記述から徐福と武内宿禰はおそらく同時代人、かつ同国人であったことが分かる)
さてさて、以上の記述から判明した新事実と、私の勝手な推測をメモしておきます。
◆全国各地に残る「徐福伝説」は全て正しい。
なぜなら、徐福一行は何年もかけて日本各地を転々と移住して行ったからである。
おそらく、佐賀に漂着し、熊野に三年間滞在し、そこから駿河の焼津に定住した。◆徐福の書いた『宮下文書』と、武内宿禰の書いた『竹内文書』はほぼ同じ内容であり、下記の3つのパーツで構成されている。
(1)太古の大元神の歴史
(2)日本各地に伝承として伝わっていた神話に関する記述(少なくとも天照大神までは正確に再現されている)
(3)徐福渡来以降の自分たちの子孫に関する記述
また、宮下文書には徐福の出自も書かれているのだそうです。
その後、徐福の出自が分かりましたので、メモしておきます。
つまり、もともとは何人か分かりませんが、代々しっかりと中国の皇帝に仕えてきた名門であり、ハッキリと「中国人」と呼んだほうが、分かりやすいのではないでしょうか?
<徐福の出自に関する『宮下文書』の記述>
そもそも徐福は、韓轅氏から出ている。
韓轅氏の第4子を忠顕氏といい、その6世の孫を萬正氏という。
萬正氏は夏の兎王に仕え、農業を担当した。
その子孫は代々夏王朝に仕えたが、滅んだあとは民間人にもどった。
その48代の末裔である正勝は、周の武王に仕えて功を立てたので、「徐」という姓を賜り、楚国の首長となった。
(中略)
その子孫が、孔子の弟子の「子路」である。
子路の子孫たちが、秦の始皇帝に仕えて重臣となった。
その重臣のひとりが、徐福を生んだ。
つまりこういうことです。
韓轅氏 → 忠顕氏 → 萬正氏(夏王朝の禹王に仕える) → 48代末裔の正勝:徐氏(周の武王に仕える・楚国の首長) → 子路(孔子の弟子) →徐福
さきほど、秦の始皇帝と徐福の共通点として「羌族(チャン族)」を挙げました。
『夏王朝は羌族(チャン族)から興った』ともいわれており、あながち的外れでもなさそうです。
また、チャン族は古代イスラエルの失われた10支族の末裔という調査結果もあります。
【衝撃】中国・四川のチャン族は古代イスラエル「失われた10支族」の末裔で日本人の兄弟だった! 日ユ同祖論の核心に迫る!───exciteニュース(2018.07.16)
徐福は子路の子孫だったとのこと。孔子や諸子百家はユダヤ人だったと以前の記事でも紹介しましたが、その弟子の子路もまたユダヤ人だったのかもしれません。
そして、驚くべきことに東夷とも繋がりました。
以上を画像にまとめたものがこれです。
なぜ徐福は、秦に仕えることとなったのか。
それは彼らが一括りに「東夷でありユダヤ人だったから」なのかもしれませんね。
徐福が持ち込んだ薬師如来と、妙見信仰。
徐福は方士であり、道教が基盤にあります。
が、その他にもいろいろと拝んでいた可能性があります。
子路の子孫だともあるので、儒教も学んでいたことでしょう。
徐福はあらゆる分野に精通していたといえる人物ですが、おそらくは後に「妙見信仰」として集合されたその原型にその根源があったのではないかと考えられます。
画像参照元:Wikipedia
上の画像は「薬師如来」です。
「薬師如来」は、「本地垂迹」でいうところの「素戔嗚=牛頭天皇」や「国常立尊」なのだそうです。
つまり「妙見信仰」そのものですね。
妙見信仰について、詳しくはこちら。
空海も最澄も日蓮聖人も出口王仁三郎も深見東州も池田大作も同じ悪魔「サナト・クマーラ」を崇める妙見信仰者でした。
どうやら「妙見信仰」は、古代から現代までの支配者たちに一貫して拝まれている宗教らしいです。日本における支配者の傾向のひとつです。
「妙見信仰」の代表的存在といえば「空海」が思い浮かびますが、「空海」による四国八十八ヶ所では「薬師如来」の割合が多く、御本尊の4分の1は「薬師如来」でした。
空海は妙見信仰なので、当たり前といえば当たり前ですね。
※素人調べなので悪しからず。
その「薬師如来」を日本に持ち込んだとされるのが、「徐福」でした。
※いちばん最初かどうかは不明です。
徐福はインドへ留学した経験があり、そこから薬師如来を持ち込んだのだそうです。
以下は書籍「神皇紀」に掲載されている一文です。「神皇紀」は「富士古文書資料」の現代語訳になります。
書籍:現代語訳「神皇紀」
内訳:神代記
ページ:124-129
項数:6
表題:除除子系暦
除子は福子とも言う。炎帝神農氏の一男有熊、その4男忠 顕の子孫。田学は孔子の門人。範雎(始皇帝は秦敬と範 雎の娘の子・強秦→白起)の長男除除子、字は徐福とい い、孔子の門に入り、インドに渡り、薬師如来を持ち帰る。 秦始皇帝の命により、大祖先の住んだ蓬莱島に不老不死 の薬があると言って大船85隻5百人の男女を従えて海を 渡る。
著者:孝霊天皇76年秦 国人除之徐福謹 書。 寒川神社宝物蔵よ り借受写置、安元2 年宮下源太夫義 仁謹記。
富士王朝自体、空想の産物として扱われているわけですが、これほどまでの資料を全て「偽書」とみなす方がそれこそ“トンデモ”だと思うのですが…。
徐福が秦王国を建てた?
それはさておき徐福は、渡来した場所が「佐賀」だったことからも、富士王朝を建国する前に「秦王国」の建国に携わっている可能性があります。ちなみに、秦王国があったと考えられる場所が「福岡」です。
以前、実存した!日本の古代王朝、東表国=秦王国。【古代シュメール王国の行方③】でも詳しく説明しました。以下は記事の要約なので、根拠等はリンク記事を参照してください。
秦王国はまさしく「秦氏」の国で、「東夷」の国でもありました。
「また東に行って秦王国に至る。その住民は華夏に同じく、夷州とするが、疑わしく明らかにすることはできない。」(※隋書の倭国伝より)
読んでおわかりのように、秦王国は華夏、すなわち当時の中国である隋と同じであるという。夷州とは中華思想でいう東夷、侮蔑のニュアンスを含んだ文化レベルの低い国という意味である。隋に比べて日本は野蛮な国であるはずなのに、なぜか秦王国だけは中国を統一した隋に匹敵する文化をもっている。理由はわからないが、不思議だというのである。
そして「秦王国」はすなわち「辰韓」でもあり、辰韓とはのちの「新羅」です。
「秦王国=辰韓=新羅」ということですね。
また、このような記述もあります。
古代、新羅は徐羅伐(ソラボォル)と呼ばれ、国に徐がついているので、徐福一行が半島南部に立ち寄って、クニを建てたことがわかります。
徐福が「秦王国」や「新羅」の建国に携わっているのは明々白々です。
さらに「秦王国」は秦氏姓が多く、ここから聖徳太子も誕生したかもしれません。
「秦王国」には「勝」の苗字が多く、聖徳太子の別名は「秦河勝」でした。これについてはこちらの記事を参照してください。
まとめ
如何だったでしょうか。
徐福の存在とその伝説が、より鮮明に明らかになったのではないでしょうか。
古史古伝だからといって軽んじるのは勿体無いことです。
さらなる真実が世に知られるようになることを祈るばかりですね…。( ˘ω˘ ; )