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※こちらのページでは不定期に雑記を掲載。あとで一気にまとめて記事にするかも。この形式をとったのは、いちいち記事にしてしまうとややこしいかなと考えた次第。興味がある方はどうぞ。
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2019/09/19
「悪とは何か」

悪とは何でしょうか。「誰かの善は、誰かにとっての悪になる」。だから、善も悪もないのだ、と考える人がいます。そう考える人とは、悪を悪として絶対視するのではなく、あくまでも客観的で中立的な位置で善と悪を見定めようとする、そういう人です。だから、悪を主観的な意見でバッシングする人々を嫌うわけです。いつも冷静で、腕を組みながら見下ろしている、そういう姿が目に浮かびます。では、そのような人は、何で物事を判断するのでしょうか。善悪でないなら、残るは利益です。いざ自分に災厄が降りかかったときはどうするのでしょうか。おそらくは、自分が嫌っていた主観的な人間になりさがり、激しく抗議するでしょう。

わたしは、いつも中立の立場でいようとする人間が嫌いです。そういう人間は善悪ではなく、損得で動くからです。客観的な人間が嫌いなのではありません。客観視は大事です。それを失えば、善悪の判断基準を失うことにもなりかねません。中立の立場でいようとする人もまた常に客観視しているでしょうが、客観視する人が中立の立場にいるわけではないのです。この中立の立場でいる人間はいつも黙ってみているだけではなく、いざ不利益が被ろうとすれば損得で動きます。

このような自分の利益だけを追求する人間が集まった集団を想像してみてください。おそらくは秩序の維持は難しく、争いも絶えないでしょう。「誰かの悪が、誰かにとっての得」になり、「誰かの得は、誰かにとっての悪」になる世界になるのではないでしょうか。悪が何かも分からなくなります。そして、個々がバラバラの価値観を持ちながら集団として固まることは不可能に近い。だから「最悪」が誕生したとき、一致団結して「最悪」を倒すことができません。その「最悪」が、だれかの利益になり得るからです。だからわたしは、共通の善悪の基準を持つこと、そしてそれを重んじる良心を持つことはやはり基本的に大事なことだと思うのです。そしてそれぞれが個々の善悪の基準を持っていてもだめなのです。

かといって、令新撰組のような偽善者集団も苦手です。彼らや彼らに付いてデモをする人々は何か、自分の溜めに溜め込んだ不満や心配や怒りといったネガティブなものを「正義」というポジティブなものに昇華して、発散しているだけのように感じるのです。もちろん、世を変えてほしいからこそ糾弾しているのは確かででしょう。そして彼らが世の先頭に立てば、安倍などの在日のクソ政治よりかは遥かにマシな政治が行われるようになるかも分かりません。

なにかを弾圧し倒さねばならないとき、必要なのは極論なのかも知れません。悪を悪とする、そういう極論です。極論ではなく、ただ悪を悪としているだけですが、わたしたち日本人はおそらくそういったこと自体が苦手な人が多いのかもしれません。だから極論に聞こえてしまうわけです。しかし、真の悪人は悪人であることをうまく隠しながら善人として生きているものです。そんな小賢しい奴らに対して「あなたのこういうところは良いけれど、こういうところはダメだから直して欲しい」と優しく諭したところで、奴らはまた隠れたところで悪を行い続けるのです。そして、誰の利益でもないただ自分の利益のためになるよう頭を働かせて、大金を吸いとりながら死ぬまで生きる。われら下民はただの上級国民のための働きアリにすぎません。

「最悪」には「最善」を尽くすしかありません。そして「最前」を行うとき、わたしたち下民の怒りを昇華させただけの「正義」では、やはり物足りないと思います。なぜなら、そのような正義では「最善」が行われないからです。それこそ怒りと主観で、客観性を失うことになるでしょう。自分の行いが見えなくなって、あとから見たらそれは悪人のしていることと変わりなかった、なんてことになれば本末転倒です。

世代によって、世の捉え方は違うことでしょう。「日本は平和すぎるほど平和だ」と思う人もいれば、「悪人による政治で腐りかけてる国だ」と思う人もいます。平和だと思っているならそれはただ無知です。そんな悠長なことは決して口にできないのが日本です。安倍のクソ政治に毎日行き場のない怒りを抱えている人もいれば、諦めている人もいますが、どんな境遇にあったとしても日本人はもっと真実を知るべきです。面倒がらずに。

2019.08.08
「宇宙はどこから生まれたか」

   宇宙はkhaosから生まれた、なんていう人がいるが、それは違うんじゃないだろうか。人間は混沌としているけれど、混沌から誕生できるわけがない。人間の体はほんとうに合理的で無駄がなく、計算され尽くしているからだ。小さなものから大きなものまで、ほんとうによくできている。たまに不具合があるとしても、それをうまく周りのもので補って、なんとかしようと全力を尽くして体を営もうとしてくれるのだ。自然だってそうだ。微生物から哺乳類まで、生きとし生けるもの全てに価値があって、命をつなぎ、あらゆる全てに生かされている。緻密で壮大な、ほんとうにすごいものなのだ。だからこそ、宇宙は混沌ではなくて、秩序のうえに成り立っているはずだ。そして秩序の先にあるのが真理である。そして真理は厳しい法則でもあるけど、その本質にあるのは愛だからほんとうは優しい

2019.08.08
「愛と真理のつながり」

 こんな自分にも、少しは誇りがある。それは、自分の中心にある、愛と真理に生きようとするまっすぐな軸だ。ウジウジと臆病で弱くても、すぐ挫折しても、愛がなくて親切にできなくても、それで責められても、その軸があれば、また立ち直れる。自分を取り戻して、また生きていこうと思える。どんなに世知辛くて、喧騒な世の中でも、愛と真理を軸にした自分の心の正直な声を聞けば、雑音を排除して、まなざしをクリアにして、また生きられるようになる──と、そう知った。

 とはいえ、その軸もまだ芯の細い、密度の低いものだ。だからその軸が折れることもあって、一旦折れてしまうとしばらく直すことができず、心がずっと沈んで、体も重くて、なんのやる気もない状態に長く陥ってしまう。

 しかし、それでも愛と真理は、わたしを強くする。こうやって言ってしまうとなんだか安っぽく聞こえてしまうのがあれなのだが、実際そうなのだ。だれかの口から吐かれた大して意味のない悪意のこもった言葉も、いつもは心にグサリと棘がささってしばらく抜けないのが、不思議と気にならない。

 毎回そういうわけにもいかないけれど、気にしないぶんだけ他のことに注意がいくようにもなる。わたしは忘れっぽくて何かと不注意な人間なのだが、これはいつも身の上に起こるさまざまな出来事についてあれこれと考え過ぎてるのが原因だった。無駄なことも、大事なことも、分別できずに考え過ぎてしまうのだ。

   スピリチュアルでは「宇宙の法則」なんてものを教えており、それは即ち「愛」であると説かれているが、わたしが言っていることとは大分違う。人間が見るべきところは、宇宙にある想像もできない愛なんかではなく、身近にある愛ではないか。でもそれは身近な人々から貰うような愛かどうかも分からないものではなくて、思考の先にある“真理”とも呼べるもの。少なくとも、どんな問題も解決する武器となる“真理”を見つけ出していくことで自分も周りの人も守れるような愛のある人間になれるはずだ。

   身近な人の愛かどうかも分からないモノに依存してしまうと危険だ。そこばかり見ていると、どんどん視野も狭くなって、価値観も単一なものになっていく。そして知らないうちに縛られていく。だからわたしたちは「思考を停止」してはいけない。どんな問題があろうと、そこに隠されている“真理”を見ることを忘れてはいけないのだ。それを忘れると、表面的なものに騙されるようになる。いつのまにか、だれかの表面的な嘘くさい偽善に自分も塗れてしまっているのがオチである。

   わたしが人から愛を感じるとき、わたしに向けられた暖かな眼差しや、頬に浮かぶ優しい笑みで「確かな愛」は感じない。そういうのではなくて、ただ真っ直ぐな言葉や、軽やかな気づかないうちにやってくれていたような親切だったりする。なんの責めも負担もなく、暑苦しくなく涼しげで、ただ相手を純粋に思う、思いやりという愛だけが存在している。もちろんいろんな場合があるのだけれど、わたしが経験したそういう愛があって、ずっとそれを忘れられずにいる。それくらい強力な力があるのだ。相手を純粋に思う言葉や行動には愛があって、そこには確かに真理があった。

   文章力が及ばず伝えたいことをうまく伝えられないのでもどかしいが、きょうはこんな感じで終わってみる。ほんとうはもっと愛と真理の繋がりを語りたかったができなかった。そして話がちぐはぐでまとまりがない文章になってしまったのを今日の反省点にしておく…。

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